先日、母と行ったイタリア料理店で食後のエスプレッソを頼んだら、エスプレッソと一緒に、砂糖の袋がどさっとテーブルにやってきた。
イタリアの砂糖はいろんなパッケージがあって好きだ。手にとってイラストやデザインを見比べていると、明らかに3分の1程度しか中身が入ってない袋があった。でも袋は未開封。
「なにこれ!」と楽しむ母に、
「イタリアのだからじゃない?」とあまり驚かない私。
日本では起こり得ない気がするけど、何だかイタリアなら起こり得る気がする。「ねえ、お店の人に伝えてあげよう」という母に、クレームみたいで嫌だと言ったけれど、母は気にせずに既に店員を呼んでいた。
「砂糖が全然入ってない」と突然伝えたら、言い方は優しかったとしても、日本ではクレームと受け取られるのではないだろうか? しかも今は忙しい昼時。客席は満席で、イタリア人の店員たちも、口数少なく必要事項のみの会話で黙々と働いている。これが東京のイタリア人の料理店? 尼崎のイタリア人の料理店と、全然違う雰囲気だ。
しかし、「ねぇ、見て! 全然砂糖が入ってないけど?」という母に、さっきまで営業スマイルしか見せなかったイタリア人のおじさんは、「なんてこった! どういうことだ!?!? でも…これがイタリアさ!!」と、急にフランクな笑顔で、イタリア語でこたえてきた。
するとさっきまであんなに、クレームと思われると気にしていた私も、それにつられて、気づくと「ほんとうに不思議…! まるで魔法みたい!!!ちいさなミラクルだね」と、イタリア語で会話に入っていたのである。
レストランを後にして、歩きながら考えた。もし日本語で話していたら、私は「まるで魔法みたい!!!」なんて「ちいさなミラクル」なんて言っただろうか? 「やっぱりイタリアだね(笑)」とは言ったかもしれないが、「魔法」だなんて、空想めいた返答をしただろうか。
思い返してみると、イタリア語の授業やイタリア人と話すときは、日本語で話すときよりも、「はい」や「いいえ」以外のひと言を探している。イタリアやイタリア人が持つ雰囲気に、無意識に近づこうとしているのかもしれない。日本語では言えない何かを、イタリア語だったら言える(言おうとしている)気がする。言葉は、普段はあまり表に出てこない私の一面を引き出しているのではないだろうか?
勉強中のフランス語がもっと話せるようになったら、会話の節々でアイロニーを楽しむ大人になれるかもしれないし、セネガルのウォロフ語を話せるようになったら、もっと大袈裟にドラマチックに会話するようになるかもしれない。気になっているアルバレシュ語が話せたら、私はどんな自分に出会えるだろう? スペイン語は? アラビア語は? フィンランド語は? 言葉の数だけ、自分があるかもしれない。
言葉を学ぶ楽しさは、コミュニケーションがとれるようになることや本が読めるようになることだけでなく、知らなかった自分と出会うことでもあった。言葉が新たな自分を引き出す。まさに、ちいさな魔法のように。
小島知世(編集)