久しぶりの更新となる「スピらずにスピる」ですが、今回は予告通り、王子教会への訪問の話をお届けします。沼田和也牧師との出会い、そして、そこで何を得たのか。得なかったのか。前編後編に分けてお送りします。
王子北教会を訪ねたのは2月の初旬。日本海側の鳥取から、太平洋側に位置する東京へ着き、遠慮のない日光に全身を晒した。久しぶりの陽光。それだけで僕は祝福されているかのような気持ちだった。
午前10時30分から礼拝を行なっているというので、僕は教会への一訪問者として、礼拝してからの取材を申し出た。教会という空間へ足を踏み入れるのは農学校時代以来だった。扉をノックして足を踏み入れると、和やかではあるが静謐な時間が流れていた。聖歌集と聖書、キリスト教雑誌「百万人の福音」(いのちのことば社)が配られ、その内容に目を通しながら礼拝がはじまるのを待った。
「百万人の福音 2023年2月号」の特集は「”ありのまま”で愛されていると”そのまま”ではいられない」というものだった。巻頭には特集を補足する文章として「-ありのままで愛されているのに、変わっていくことが期待されるとは一体どういうことなのか? 共に考えてみたい。」とある。収録の漫画には「他者が悩む時、人に対しては「神様はあなたのありのままを愛しています。」と言えるが、自分自身に対してはそのように思うことが難しい。何故ならば自分の心の内に潜む様々な卑しさを自覚しているから。」というような悩みが表現されていた。キリスト教を信じる中で出会う葛藤。クリスチャンではない自分にも覚えがある。人の助けには応じられるが、自分から「助けて」とは言えない。何が自分に対してブレーキをかけているのだろう。
そんなことを考えていると、壇上に沼田さんが立ち、聖書を読み始めた。読まれたのは「ルカによる福音書8章4~15節。
4 さて、大勢の群衆が集まり、その上、町々からの人たちがイエスのところに、ぞくぞくと押し寄せてきたので、一つの喩えで話をされた。
5 「種まきが種をまきに出ていった。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。
6 ほかの種は岩の上に落ち、はえはしたが水気がないので枯れてしまった。
7 ほかの種は、いばらの間に落ちたので、いばらも一緒に茂ってきて、それをふさいでしまった。
8 ところが、ほかの種は良い地に落ちたので、いばらも一緒に茂ってきて、それをふさいでしまった。」
9 弟子たちは、この喩えはどういう意味でしょうか、とイエスに質問した。
10 そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、喩えで話すのである。」
11 この喩えはこういう意味である。種は神の言葉である。
12 道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言葉が奪い取られる人たちのことである。
13 岩の上に落ちたのは、御言葉を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試練の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。
14 いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。
15 良い地に落ちたのは、御言葉を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。
朗読を終えたのち、沼田さんは語り始めた。
「イエスは譬え話として話したその言葉の意味をひとつひとつ解説していきます。その中で「悪魔によってその心から御言葉が奪い取られる」とありますが、果たして奪い取られるとは一体どういうことなのでしょう?私達は悪魔という存在を見ることはできない。その悪魔とは何でしょうか?私自身、信仰が揺らいできたことが多々あります。棄教してしまおうと考えたこともあります。ではその時、私の心から御言葉は奪い取られたのでしょうか?奪い取られるとは永遠に失ってしまうことと解釈できますが、一体誰が人に対して「御言葉が奪い取られている」と言えるでしょうか?「試練の時が来ると、信仰を捨てる」とありますが、その試練とは何でしょうか?同じく「あの人は信仰を捨てた」と誰が人に対していえるでしょう?今日、教会に来なくても、密かに祈り続ける人だっているかもしれない。「実の熟するまでにならない」とありますが、その実とは?「実が熟している/熟していない」と果たして誰が決めることができるでしょうか?イエスは喩え話を弟子たちに求められて解説していますが、この解説でさえ、全てを明かしてはいないんです。無限の解釈の余地があります。」
僕は「聖書を読む」ということを少し単純化して捉えすぎていたことを自覚した。聖書に書かれているのは揺るぎない答えで、信じる人はその答えを機械のようにインストールすることが求められているのだと。沼田さんは「もし聖書に書かれている言葉にひとつの解釈しか許されていないのであれば、これだけ長い時間を越えて読み継がれることは無かったでしょう。」と言った。
礼拝の時間は昼まで続き、その後はお茶とお菓子が配られ、礼拝者の方々は席の近い人々同士で談笑し始めた。その合間合間を、沼田さんは縫うように歩き、一人一人の話しに応えていた。
僕は前の席に座っていた方(Aさん)に話しかけた。「毎週礼拝に来ているんですか?」「ええ、すぐ近所に暮らしてて、最近は毎週来ています。」それから鳥取から来たことや本屋をやっているというような話しをすると、Aさんはフランス文学好きが高じて教会通いをするようになったのだと言った。「フランス文学によく出てくるキリスト教、この宗教をもっと理解していかなくては、文学を本当に理解することはできない」と思い始めたのだという。洗礼は受けていない。Aさんばかりでなく、この日教会に集まっていたほとんどの人が洗礼を受けていないらしい。つまり厳密にはクリスチャンではないということだった。通路を挟んで向かいの席では、趣味の楽器演奏について女性たちが語り合っていた。
フランス文学好きのAさん、音楽好きの女性たちが集い、そこで行われる、古典中の古典である聖書の読書会。生活とは別次元の詞で綴られた賛美歌の斉唱。人と共に歌う時間を、この日僕は久々に味わった。「根を持つこと、翼を持つこと」という言葉があるが、生活が根であるなら、賛美歌で歌われるのは精神の飛翔、日常からの束の間の離脱だ。僕は歌いながら、クリスチャンでもないのに生活から解き放たれた一瞬を感じた。
沼田さんは洗礼を受けているかどうかを問わず、教会に人々が集うことを歓迎する。そこに一切の葛藤が無いわけではない。「キリスト教徒になって欲しい。」という気持ちもあると言う。以下のインタビューで、牧師で在り続けること、訪れる人々と共に生きることについて多くを語って頂いた。僕はしつこいくらいに「何故キリスト教徒でなければいけないのか?」という疑問を投げかけた。それは自分自身が何故特定の信仰を持っていないのかということを知りたいからだった。
モリ 今日のお説教、聖書の読み解き方みたいなお話しでしたけど、僕みたいなクリスチャンではない人が参加するからお話ししてくれたのかなあと勝手に思っていました。
沼田 うちはクリスチャンではない人が来ることが多いので、あんまり信じてて当たり前でしょ、信じてたらこれぐらい分かって当たり前でしょって話しはしないんですよ。当たり前と思ってることが当たり前じゃないよねという話しのほうが多い。
モリ 朝から半日教会で過ごして、礼拝する時間にやはり自分は惹かれるということを確認しました。同時に何故自分はキリスト教に惹かれながらもクリスチャンにならないんだろう?とも考えていました。礼拝を終えてから集まる方々と話して、ここには洗礼を受けていない人が多いということも聞きながら、もしかしたら洗礼は受けていないんだけどキリスト教を自分の一部として取り込む(自分のラグに編み込む)みたいなこともあり得るのかなと。
沼田 キリスト教徒になるというのも、洗礼を受けてメンバーシップになるということがどうでもいいわけではないんですよね。ただ、キリスト教というのも、はじまった時から今まで不変だったわけではないので、時代の中で、また地域によって「これとあれと同じキリスト教なの?」というくらい千差万別に変化してきたわけですよね。だから洗礼を受けていないけど教会に来るというのも、これもまたある時代、ある地域の教会として何もおかしなことではないんじゃないかな。もちろん「イエス・キリストに仕えるんだ」という信仰告白ですね。でも、洗礼には決意表明的な側面もあるわけです。すごく身もふたもない俗っぽい言い方をすると、洗礼を受けて教会員になれば、自分で決意した金額を月に一度ここに献金するということがあるんです。それは額は自由だけど、月極の献金をするというのはある意味義務になるんですよね。それと礼拝で献金する。そういう縛りが生まれるわけですね。それがここを維持する大きな支えになるわけです。つまり「自覚的にここを支えていくんだ」というひとつの決意の現れとしての洗礼という側面もあります。そうして縛りができるということで自覚的に「自分は色々ある宗教の中になんとなくコミットするんじゃなくて、信心としては排他的にキリスト教が信奉している神に仕えるんだ」という表明としての洗礼ですよね。
モリ 沼田さんの本を読ませて頂いたんですけど、沼田さん自身は排他的にキリスト教を信じていながら、それでも他の宗教からも学んでいる様子が書かれているじゃないですか。それはどんな感じなんですか?
沼田 唯一神教と拝一神教とが揺らいでいるようなところが自分の中にきっとあるんでしょうね。自分では気づいてないけど。聖書の中にも、旧約聖書の古い層を遡っていくと「私は妬み深い神だ」と名乗っていたり「他の神を拝むな」みたいなことを言ってたりするんですよ。神様自体が。ということはね、それを信じていた古い時代のイスラエルの人たちは他にも神がいるという前提で、自分たちは他の神ではなくヤハウェを選ぶ、っていう感じで信じていた可能性が高いですね。ということは他にも神々も拝み得た。だから、他の神々を拝んだらヤハウェが嫉妬すると思ったってことですよ。そこでは神様というのはいっぱい居て、そのなかで自分たちは、このヤハウェを拝みますっていう発想なんですよ。それを拝一神教というんです。一般的に「一神教」といったらイメージとしては他に神なんていなくてただヤハウェだけしか神はこの世には存在しないというイメージですよね。実際聖書でも割りと早い段階からそうなっているんですね。他の神々なんてたんなる偶像でしかなくて、薪で焚べたら燃えてしまうような木とかお人形さんなんだと。神といえばヤハウェしかいないんだという信仰に変わっていくんですよ。それと同時進行で、イスラエルだけの神でもないというふうになっていくんですよ。この世に神がひとつしか存在しないんだったら、世界中の人間がこの神を拝むはずだっていう、そういう信仰に変わっていくんです。古い時代は、神々はいるけど、イスラエル部族の神はヤハウェで、他の人たちが何を拝むかは知ったこっちゃない。とにかく自分らはヤハウェを拝むっていうスタンスだったんですよね。それが、世界中の人たちがいつかヤハウェを拝むようになるだろう、何故ならヤハウェしかいないんだからという論理に変わっていく。私も他の神々なんていないという排他的な側面と、いや、もしかしたらお釈迦様やらアッラーやら色々いて、自分はその中でヤハウェと呼び習わされてきたものを拝んでるのかなと思う側面と、両方あるんですよ、多分ね。人間って曖昧な存在だからクリアに自分を定義付けるってことは多分難しいですよね。
モリ 僕がこれまでに出会ったクリスチャンの方々に「何故あなたはクリスチャンになったんですか?」と聞くと、結構決定的なエピソードがあったりしたんですよね。死にかけてうなされてる時に光を見て、その光がイエス様としか思えなかったとか。なんらかの決定的な出会いがあって、それ以来自分はクリスチャンになったんだみたいな人が多くて。だから僕はそうした神秘体験が人を信仰に導く大きなひとつの要因なんだろうなと思うんです。でも沼田さんの本を読むと、高校一年生の時に特別な理由もなく洗礼を受けていますよね?
沼田 なんとなく受けましたね。なんかね、当時、映画『プラトーン』とか『ハンバーガー・ヒル』とかベトナム戦争の映画が立て続けにあったんですよ。で、MA-1ジャケットだのドッグタグ(米軍の認識票の模造品)だのが流行ってたんですよ。店によってはドッグタグに名前を入れてくれるサービスがあって、友達が自分のドッグタグを見せてくれたんですよね。その友達は後に教会に僕を誘ってくれることになるんですけど。ドッグタグって血液型とかを書き込むんですけど、「宗教」という欄もあるんですよ。各宗教を省略したアルファベットが打ち込まれる欄があるんです。それでその友達がドッグタグをつくった時に、彼はプロテスタントのクリスチャンだから、そのことを表す記号が入ってたんですよね。それを見せてもらった時に「ああなんかかっこいいな」と思ったんですよ。なんかその、宗教というアイデンティティがあるんだなと思って。当時「アイデンティティ」なんて言葉知らなかったですけど。「おれは○○□□だ。」と言える何かがあるということに憧れたんですよね。
で、いろいろあって、その友達が教会に誘ってくれたんですよ。で、そのいろいろがアホみたいな理由なんですけど。タロットカード占いにハマっている別の友達がいて、ある時彼が体調を崩したんですよね。で、これはいかにも中学生が考えそうなことですけど「これはタロットカードの扱いを間違えた為に呪われたのではないか」みたいなしょうもないことを言い出したわけですよ我々は。で、悪魔払いとかどうやったらできるんやろとか言って、そしたら「おれの行ってる教会来てみるか?」と誘われて。結局悪魔祓いとかしてくれなかったんですけどね、普通のプロテストの教会なんで。でもその中で僕はアイデンティティがあるという状態に興味を惹かれて、別に深く考えもしなかったけど「クリスチャンとかになったらかっこいいかな」という、今思えばバカみたいな理由ですけど、それで洗礼を受けたんですよ。
モリ 現代の日本に生まれたら自分自身の根っこがないじゃないですか。ルーツみたいなものが。だからそういうふうに憧れる気持ちは分かるんですけど、でも軽いきっかけで洗礼を受け、今もなおクリスチャンで在り続けるというのは簡単なことではないと思うんですよ。その強度はどこから来ているんですか?「牧師、閉鎖病棟に入る。」(実業之日本社)の中でも書かれていましたけど、阪神淡路大震災で被災し、極限状態の中で沼田さんの心が救われるのが教会ではなく、家族との会話ですよね。窮地から救われる時、そこに現れるのはキリスト教や教会ではない。にもかかわらず信仰し続けているというのが僕は気になります。
沼田 そうなんですよ。僕はキリストの声を聞いて云々というのはないです。引きこもりの時に自覚的に教会へ行くようになりましたけど、高校を中退してね。それもキリストがどうのこうのというより、牧師さんが凄く親身に話しを聞いてくれたり、ある時はガキっぽくヒステリー起こして「自分なんかどうしようもないんだ」と嘆いたりもするんですけど、そうした行動を起こしても「おまえなんかもう来るな」と言う人は誰も教会にはいなかったんです。内心煙たがる人もいたでしょうけど。要は居場所ですよね。教義がどうとかはどうでもよかったんですよ、うん。この教会でも寂しい人が来るんです。それは分かる気がするんです。彼ら彼女らにとって、十字架がどうだとか復活がどうだとかは二の次三の次で、寂しくて誰かと話ししたくて。家にいたら息が詰まるから、みんなの気配がするところで、しかもあんまりお金がかからなくて、お茶ができる、そういう場所として。僕もそんな感じで教会に行ってましたから。
モリ それは言ってしまえばそういう場所はお寺であってもいいし、カフェであってもいいのかもしれない。
沼田 カフェはちょっとまずくて、カフェだと他の店員やお客さんに気安く話しかけたら不審者になっちゃうでしょ。だからお寺とかでしょうね。お寺とかで定期的なゴミ拾いイベントとか、お祭り以外でも草刈りとかで集まるような活気のあるお寺があるじゃないですか。そういうのに近いかもしれないですよね。だってその人たち、草刈りとかして休憩中縁側に座ってお茶を飲むのが楽しみっていうか、別にブッダが何を喋ったとか極楽浄土とは何かとかいちいち考えてないと思うんですよ。僕も教会に繋がってきたというか、ぶら下がってきた理由も結局それじゃないかなって思います。
モリ 沼田さん自身は牧師という道を選んでるし、教会に人生を懸けていますよね。寺も教会も似たような目的が果たせる中で、教会でなければならないのは何故なんでしょうか。
沼田 プリミティブなことですよ。幾らでも綺麗事は言えるけど、例えば自営業者であれば店にお客さん来なかったら潰れるし、メンタルもすごいえぐられるじゃないですか。コロナが拡がった時にラーメン屋さんだったりレストランだったりいろんなとこが営業を制限させられて、補助金があるっていってもそんな限界もあって閉じざるを得なかったわけでしょ。うちもコロナの初期は緊急事態宣言が出る度に礼拝を中止してたんですよ。誰もいない礼拝堂でね、日曜日の朝なんかノートパソコンに向かってyoutubeで配信とかやるんですけど、本当にあれは虚しかった。やっぱり来てる人の顔に触発されて、そこから言葉がわぁっと引き出されるんですね。それはたぶんライブとか、いろんなパフォーマンスと一緒だと思いますよ。来てる人の顔、表情に自分の言葉が引き出される。だからどうしてもパラパラとしか人が来ていなくて、しかも居眠りとかしてたら「あー、だめだ。今日の話しはスベったなあ」みたいな感じになって、凄くガッカリする訳ですよね。そういう意味では人はたくさん来て欲しいなと思うし。
後は経済的な理由もありますよね。この教会は確かに教区などから財政的な支援を受けてるから成り立ってるんでね。この教会単体で回すというのは多分無理です。ただそれでも、支援を受けてるんだから来る人が0人でもいいやと、開き直ってしまったらもう終わりだと思います。支援をできるだけ受けないで済む、支援を受ける金額をできるだけ減らす、自分のところでプライド持って回せるようにするっていう目的意識ですね。そこはガツガツいかんといかんのじゃないかと。それはもう他の商売をしてらっしゃる方々と同じですよね。
モリ 僕が気になるのは、何故自分がクリスチャンじゃなくて、沼田さんはクリスチャンであることを選んでいるのかということなんですよね。
沼田 それは僕も思いますよ。今日も話しましたけど、「もう教会いいわ、もううんざり」って何回も思ってるわけですから。だから、それでも僕は教会に居る。というよりぶらさがってるって今日も説教で言いましたけど、ぶらさがってる感じですよね。多分ですけど、人間って理想だけで生きてるわけじゃないんで、生活がかかってるじゃないですか。自分にはもう何もできることがないという時に、昔の人が出家したみたいにね、とりあえず牧師になったらどうにかこうにか食っていけるんじゃないかという、それがあったからというのが凄く大きいと思う。偉そうなことはあんまり言えないです。牧師らしい振る舞いをして牧師らしい働きをしておれば、僅かながら、生活に足る程度の収入は得られる。それをあとは繰り返していけばよい。そういう規定の部分、基礎の部分があって、そのうえでなんか偉そうなことをごちゃごちゃ言ってるんだと思いますね。
モリ 生活の不安とかだと、もっとラクな道がいっぱいあるんじゃないかという気がするんですよね。本の中でも、牧師としていろんな人と関わってきた記録を書かれていますけど、それは決してラクではないと思うんですよ。それでも牧師であること、クリスチャンでいることを選ぶにはなんらか強い理由のようなものが必要ではないですか?
沼田 ひとつひとつの理由は弱いことだけど、総合して強くなってるというのはあります。それは他人たちとの出会いですよ、やっぱり。モリさんとの今日の出会いもそうですけど、それをなんのとりつく島もなく0から考えるっていうと、それは大変なことなんですよね。なんで、モリさんと私とは出会ってしまったのかみたいなことを、まったく0から考えるというのは僕にはできない。だけど、なんかよくわからないけど神様が、今日モリさんと僕とを引き合わせてくださったんだなと思うと、感謝の思いがふつふつと湧いてくる。それは不愉快な相手と出会った時でもそうなんですよ。なんで自分はこんな嫌なやつと出会ったんだろう、うんざりだと。だけどこの嫌なやつは神様が出会わせてくださったんだよなって。そう思う時に、その人ともう今後会うことはなかったとしても、その人のことを忘れないでおこう、もしくは物別れになった痛みを考え続けようという、その契機が生まれるわけですよね。だから私が何かを考える時に、どういう仕方なのかわからないけど、最初は確かになんとなく友達がクリスチャンでかっこいいからみたいな、幼い理由で洗礼受けましたけど、いつのまにか、イエスも他人たちと出会い、他人たちに気付かされ、他人たちから傷を受けて、もうなんだったら最後は他人たちに殺されたけど、生き返った人なんだなと、自分と重ねてそれを理解するようになったんですよね。そういう出会いは別に強烈な神秘体験がなくてもありますね。特に牧師になってからはお葬式を何件かする中で、それぞれ一人一人の生き方、死に方、出会いや別れ、そういうものを通して、こないだまで歩いてた人が、その肉体がもうここに存在しないんだという不思議さ。それを思う時に頭でだけの神というイメージではもうないんです。よく、あのドアの向こうくらいに死者たちはいるんだ(ドアを指しながら)と僕は話しするんですけど、死んだ人は遠くにいるんじゃなくて、あのドア開けたら「あ、こんにちは」くらいの近さでいつも居る。それが神の領域なんだ。神の領域っていうのは遠いどこかの向こうじゃなくて、すぐドアの向こうくらいの近しさなんだと。それは葬儀を重ねるなかで実感するようになったことですよね。特に父を送ってからね。
自分にとって生きることや死ぬことや、その向こう側といったことを理解するその物語がイエス・キリストを巡る物語を借りて、自分の骨肉化して、そのイエスの物語を通してそういう生きることや死ぬことや向こう側の話しを理解するようになったんだと私は思っています。
モリ その物語は仏教の物語ではなく、やはりイエス・キリストを巡る物語である必要があるんですか?
沼田 アクセスのしやすさだったんでしょうね。生まれ育った環境。私は自分のことを「宗教1.5世」くらいに思って。つまり、うちはクリスチャンの家庭ではありませんので、宗教2世ではない。ただ、親はキリスト教に違和感を持たない人たちだったし、兄も姉も既に通ったことのある、教会付属の幼稚園にごく自然に私も当たり前のように通ったんです。で、兄や姉を教えた先生がやっぱりそこにはいて、そこは教会付属の幼稚園だから礼拝もあって。そういう中で聖書の言葉も少しだけ覚えて。で、母の会という保護者会みたいのがあって、その母の会で集まったお母さんたちが幼稚園の先生と一緒に聖書を読む時間があるんですよ。その横で僕は母が聖書を読む姿を見ながら遊んだりしてたんですよね。幼稚園が終わったあとの時間ね。そういう中で育った。別に母はクリスチャンじゃなかったんですが。私は小学校に入ってからも、ほんのしばらくですけど、教会学校なるものに行っていたんです。で、もう行かなくなってだいぶ経って、中学3年生の時のタロットカード占い事件で、また教会に行くようになった。だから、確かに宗教2世ではないけど、キリスト教があって当たり前のような中で、僕も信者じゃないけど中学3年生になるまで、独りで「イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。」とかってよく祈ったりしてたんですよ。それは幼稚園で教わった言葉です。だから、まったく「み名」って意味も分からなかったんですけど、分からんままに、まあ「おなまえ」って意味だと後に知るわけですけど、そうやって祈ってたわけですよ。だから2世ではないけど、大人になって初めてキリスト教に触れたわけでもないから、まあ1.5世くらいではあるなって思うんですよね。
モリ 日本に暮らす多くの人にとっても、キリスト教ってあんまり違和感ないですね。キリスト教に出会って、信じ続けていく強度はどのように培っていったんですか?
沼田 だんだんとでしょうね。生い立ちによって、最も多く触れていたのがキリスト教の神様だったということです。それがもしお寺の幼稚園で、一番触れてたのがお釈迦様だったら、出家してたかもしれないし。
モリ 今となってはもうお坊さんという生き方はあり得ないですか?
沼田 そうですね。今からお釈迦様に鞍替えするというのは難しいですね。やっぱり食べ慣れた食べ物というか着慣れた服というか、自分の言語、ボキャブラリー、そういういろんな諸々のものが、もうヤハウェならヤハウェというものと縺れちゃってるからね。いまさらそれを解いて、別の神様というか仏様にというふうにはできないですね。出会った当初ならまだできたのかもしれません。「やっぱりやめた」ってどこかで思って、まだ縺れ具合がたいしたことなかったら、振り解いて、別の信仰や価値観を求めることはできたでしょうけど。もうやっぱり、お祈りのボキャブラリーとか、困った時、祈る時に直感的に思考するものとかね、そういういろんなものが縺れちゃってるわけですよ。結び合わさるというか、結んだものだったら解けそうですけど、結ぶなんていう綺麗なもんじゃなくて、縺れちゃってるわけです。だからもう解けない。それは多分「強固な」というのとも違うかもしれない。よく「思考のクセ」とかって言ったりするけど、砂に水が流れ始めたら最初にルート、溝ができる。水が流れれば流れる程その溝が深まっていくばかりです。別のルートに今更流れるっていうのはよほどのことがないと無い。それと似てると思います。思考のクセがそういう流れになっているから。それを根本から流れを変えるというのは負担が大きすぎて、壊れちゃうと思うんですよ私自身が。
「沼田牧師との出会い」(後編)に続く
モリテツヤ(もり・てつや)
汽水空港店主。1986年北九州生まれ。インドネシアと千葉で過ごす。2011年に鳥取へ漂着。2015年から汽水空港という本屋を運営するほか、汽水空港ターミナル2と名付けた畑を「食える公園」として、訪れる人全てに実りを開放している。
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