「信仰」という言葉をこの数年よく使うようになったのは、店を訪れる人が「儲からないのに何故本屋をやっているのか?」と尋ねてくることへの答えとして、それがちょうど良かったからだ。この質問は店を始める以前からもよく聞かれた。「何故儲かりもしないことに君は人生を捧げようとしているのか?」と。その都度、僕は自分自身に何故と問いかけた。儲かる/儲からないは問題ではない。僕は本屋という場所が持つ性質に強く惹かれている。本屋には無数の人々が考えてきた事物への記録があり、そこに人は集まる。彼らは何かを求めている。人生を変える何か。生活を力強いものにする何か。自分自身を変容させる何かを。金があるかどうかは問題じゃない。職業も肩書も関係ない。生まれも育ちも問わず、人々が集い交差していく場所。それが本屋という場所が持つ性質だ。そこで言葉が交わされ、人々が出会う。その出会いの先に、新しい希望を感じられる風のようなものが個人個人の心の中で吹くだろうと信じている。このロマンチック過ぎる、僕が抱く「本屋」の像を何と呼べばいいだろう。商売と呼ぶには夢を見すぎている。やはり「信仰」がそれに最も近い。
そして冒頭の、店を訪れる人への質問に僕はこう答える。「信仰の為にやっています。」と。お客さんは笑い、僕も笑う。「信仰」というものが狂気じみていることをお互いに自覚しているからだ。だが、果たして今生きている日本人は「信仰」という言葉をどのように捉えているのだろうか。僕は出会う人、一人ひとりにそのことを確認したい。人は本当に各々の仕事が「儲かる」から、それのみを理由にやっているのだろうか。現金という目に見える数値だけを理由に、身も心も捧げているのだろうか。時に疲弊し身体を壊してまで、共に暮らす大事な人々と過ごす人生の限られた時間を失ってまで求めるその価値を手にしようとしているのであれば、それもまた十分に「信仰」といえる。あるいは「お金教」と呼ぶことのできる新たな宗教であるかもしれない。だが人は渇望しているはずだ。数値で確かめられるもの以外の何かを。その何かが何なのかを知るべく、人はググる。そして知った世界観に自らを傾倒させる。それを俗に「スピる」と呼ぶ。だがググって簡単に知れる世界観に身を捧げるには、歴史的な時間の蓄積も、信じるに至る文化的背景も乏しい。そこには信じるに足る体験も伴わない場合も多い。よって僕はまだ、そこに倒れ込むことはできない。便利で楽しい(だが破壊を伴う)「お金教」にも入信できないし、「ググって知れる世界の真実」にも倒れ込めない。だが、明言することのできない何かを僕は感じるし、求めている。それは何らかの「宗教」なのだろうか。分からない。
「信仰≒ラグという認識」
こんなふうに、「信仰」だとか「宗教」だとかの話しをしていると、人からはよく訝しい顔で見られてしまう訳だが、よくよく確認してみて欲しい。僕たちは既に一人ひとり何かを信仰していることを。
人は一枚のラグの上に生まれる。そのラグは様々な糸で織られている。一本一本のその糸は、親の価値観という糸、生まれた土地の伝統や風習という糸、周囲の人々が信じる世界観という糸、様々な糸によって織られたラグだ。人はそのラグの上に生まれ落ち、どのように織られたものなのかを生後間もなく読み込み始める。そして読み込まれ、形成される価値観を僕は「信仰」と捉えている。そして人は、その信仰に自身の身体と心を沿わせるようにして生きる。
近代以降、このラグには入念に「資本主義経済の糸」が編み込まれている。そのラグを読み込んだ人間は「如何にして多く稼ぐか」、「如何にして早く稼ぐか」ということを生きる目的にまで昇華しそれに励んでいる。それがラグのつくり出す信仰だからだ。だが、数百年間親しまれてきたこのラグもとうとう摩耗し始めた。そのことを多くの人が感じているはずだ。自ら死を選ぶ人の多さ、動植物の死、荒れる自然環境が現代のラグの限界性を示している。このラグは既に摩耗し、スケスケ状態。ほつれすぎてボロボロだ。依って立つ土台としては心許ない。自身の立つべきラグを失った状態、それが現代の日本に生まれた人々が立たされている地点だと僕は捉えている。
ではこれから、摩耗して透けている部分、ほつれて破れた部分をどのように修復していけばいいだろうか。何の糸を獲得し、どのように編み込むのか。それが今一人ひとりに問われている。僕はそう感じる。だからこの「ラグ≒信仰」をこれから編んでいく。誰も勧誘することのない、自分だけの信仰として。
「宗教との出会い」
様々な時代の転換点で多くの迷子が生まれ、その迷子と宗教は出会ってきた。出会いには恐らく、ある種の必然性がある。ある時、牧師やクリスチャンの知り合いに「何故クリスチャンになったのか」と尋ねたことがある。一人ひとり答えは微妙に違ったが、共通点として彼らは「神秘体験」のようなものを体験していた。声が聞こえたらしい。そしてその声は紛れもなく「イエス様の声だった」という。それが誰の声なのかは、それぞれの文化的背景や必然性が関わることだ。彼らには、それをイエス様だと信じるに至る必然性をそれぞれの人生の内に内包していたのだ。そのように僕は理解した。そしてそれが少し羨ましくもあった。「出会った」人は、それまで自身が立っていたラグから、歴史と必然性に担保されたその宗教が織ってきたラグにジャンプするようなものだ。ジャンプした後には、そのラグの読み込みを始める。そこには修繕する必要も、新たな糸を戸惑いながら獲得する必要もない。毎朝聖歌を歌い、祈る。聖書を読む。その一連の所作は洗練されている。歴史の厚みが、するべき必要のない失敗や戸惑いを予め削いでいる。その様子は幸福そうで、満ち足りていた。僕は心惹かれたが、「出会う」ことがなかった。今のところは。
一方、牧師でありながらキリスト教の教義に疑問を呈する人とも会ったし、9.11を機にクリスチャンであることをやめたという人とも出会った。また、いつも聖書を片手に持ちながらも嘘ばかり言う敬虔な信徒とも出会った。そしてそれはクリスチャンに限らない。住職でありながら金のことしか頭にない、たんなる経営者も多く見られる。一方で心から立派だと感じるお坊さんもいる。そうした人々との交流を通じて、僕は「宗教に入信しているかどうか」ではなく、「自分自身の手で信仰を編んでいるかどうか」が重要なのだと知った。それは、どんな宗教に所属しているかと関係がなかった。自分自身が立つベーシックラグが「キリスト教」なのか「仏教」なのかを問わず、真に宗教的な人は自身の手で信仰を編んでいる。入信はゴールではなく始まりなのだと、僕は後日思い直した。どのラグを自身の基盤として信仰を編み始めようとするのか、その選択が入信するということだ。
そして僕は、今のところ、名付けられたどの宗教にも入信できずにいる。
「民族としての糸」
「はじめ 人間たちゃ ラクしてゴンゴン ちょっと ラクしてゴンゴンだったよ」。夕方のテレビで聴いた、「はじめ人間ゴン*1」のテーマソングだ。小学生ながら、原始時代の人間の生き方を羨ましく思い、憧れを抱いた。それは日本では既に失われてしまった狩猟採集的な生き方を歌ったものだと思われる。大人になった今も僕は彼らに憧れ続け、世界の様々な民族の生活、伝統、言語、信じられている神話が記された本に関心を持ち続けている。そして近頃は、人は生まれ落ちたラグにも影響されるが、身体が持って生まれた性質というものもあるのではないかと感じるようになった。日本に生まれ、日本人という民族に規定されながらも、身体や心にしっくりくる文化は今の日本以外である場合も多々ある。それは過去、中世の日本人の価値観や生活スタイルかもしれないし、農耕が始まる以前の日本人の暮らしかもしれない。あるいはどこか遠くの国の生活かもしれない。それは恐らく僕だけではない。生まれた場所の価値観や生活と何のズレもないと感じる人はラッキーだ。そのような人はラッキーパワーを発揮して、今生を思う存分生きたらいい。だが、大なり小なり、人は世間や社会と規定されるものと自身との間にズレを感じている。このことを僕は「個人的な民族性」と呼ぶ。個人的な民族性と、今いる場所の民族性のズレが大きいことは苦しいことかもしれないが、悲観することでもない。日本人として生まれながら、日本人という民族を自身とは異なる民族として捉え、その中で共に生きていく。そのような参与観察として生活を捉え、新たな文化を共に編むこともできるのではないか。文化人類学者に憧れがある僕は、自分自身と社会とのズレをそのような可能性として捉えることで、今いる場所を冒険のフィールドかのように積極的に錯覚していこうとしている。
ネイティブアメリカン、プナン、アイヌ、アボリジニ、様々な民族の文化を知ることのできる本が今ある。僕もそういった本を読む。そして憧れる。彼らの家の素材、つくりかた、労働観、定着した祈りのスタイルや祭事、自然との絡まり方、価値観。彼らは彼らのラグがある。長い民族の歴史、時間、体験によって織られたラグだ。憧れたところで、僕は彼らのラグにジャンプすることはできない。文化的背景があまりにも違うからだ。できそうなことは、せめて彼らの知恵を学び、一本の糸として編み、自分自身のラグの補修に使うこと。そうして僕は自分自身のラグを編む。
一方、様々な名付けられた民族の内に生まれる人々のラグにも「資本主義の糸」「近代の糸」は容赦なく編み込まれている。それは「グローバリゼーション」と呼ばれ、推進されたり、その問題点を指摘されたりしてきた。そしてグローバリゼーションは世界各地のラグの上書きを続ける。ラグの修繕、或いは新たに編むことは、今や世界のどこに生まれ落ちようとも逃れられない課題として存在している。僕はそのように感じている。
「信仰を編む」
現代に生まれた日本人の多くは、これからも宗教と出会うことは少ないだろう。それはオウム真理教の影響もあるかもしれないし、近代以前から形成されてきたという日本人のアニミズム的感性が影響しているかもしれない。名付けられた宗教は未だ遠い。だが無自覚な信仰である「お金教」もそろそろ棄教する必要がある。もしくは金をベースにした信仰がアップデートされる可能性もあるかもしれない。それは今の僕には分からない。
「宗教」は遠く、「民族」としても、自分には残された叡智のようなものは伝えられていない。だが、僕がこの時代に生きているということは遥か昔に生きた人との連なりの証明でもある。僕の先祖の中にも、歴史に記録されていない叡智を備えた民族が存在していただろう。迫害に加わった者もいれば、迫害されて途絶えた民族に属する人もいただろう。その連なりの果てに、今、モリテツヤは身体を持って立っている。今を生きている。誰に教わった訳でもないが、嘘をついたら気持ちがざわつく。痛みを感じている人を見ると僕も痛みを覚える。無闇に生き物を殺すことに戸惑いを覚える。これらの感覚の底にあるのは何だろう。連なりの果てに獲得した、身体に刻まれた知恵だろうか。分からない。人は罪悪感を感じる行為を避ける時、「おてんとうさまが見ている」という。おてんとうさまとは太陽のことだが、太陽に照らされていることと自分の行為に何の因果があるのだろう。それも分からない。分からないが、確かに身体や心は反応を示す。現代の日本に生まれた多くの人は、「宗教」や「信仰」、「スピリチュアリティ」を避けるが、こうした誰も知らないがどこかから湧いてくる誰もが知っている感覚について、僕は色んな人と話しがしたい。
「儀式について」
「答えはきっと奥の方 心のずっと 奥の方 涙はそこからやってくる 心のずっと奥の方」。僕はザ・ブルーハーツが好きだ。そしてこの「情熱の薔薇」の詩が好きだ。「儀式」とは「思い出すことを思い出す」為に行われると何かの本で読んだ。情熱の薔薇を聴く時、僕は思い出すことを思い出す。そして涙が流れる。心のずっと奥のほうにあるものを思い出すから。
今では「儀式」と供に用いられる物質のほとんどが法律上、違法であると規定されてしまっている。心の奥のある地点に到達する為、儀式として用いるサボテンやキノコ、木の根、葉。そのほとんどが違法薬物とされている。僕より世代が上のヒッピーたちは、近代以降に生まれながら原初の心の奥へ到達する冒険を試みた。その試みが成功したのか失敗したのか、僕には分からない。残されたのは、違法だと記された法律と、試みによって変容した意識状態の記録。
だがヒッピーよりさらに前、遥か昔から行われてきて、今も違法とされずに残る文化も日本にまだある。座禅や瞑想だ。僕はまだ経験が浅いが、座禅や瞑想というのはどの「宗教」にも「民族的叡智」にもとっかかりが持てなかった人に対して開かれた技術としての扉であるように感じている。そして何の物質も必要としない。持たざる者に開かれた技術、それが仏教なのかもしれないと僕は思う。この連載では座禅もすることになるかもしれない。あるいは山伏に会いに行くこともあるかもしれない。聖と俗の狭間を生きる彼らの暮らしに、現代人でありながら心の奥の声に明晰であれる知恵があるかもしれない。あるいはミュージシャンとの交流もあるかもしれない。
僕は鎮座DOPENESSや上原ひろみの演奏が好きだ。フリースタイルがノリにノッている時、肉体が心や意志を追い越しているような様相を呈す。それは意志よりももっと深い部分にあるものと肉体が一体化しているように見える。その様に釣られて、僕の心も躍動する。僕には「心」と「魂」の違いがよく分からないが、躍動するその心が、魂の深部を揺さぶってくるような気がいつもしている。映像や文献から伝え知ることのできる各国様々な儀式は、舞い踊り、そして歌を伴う。その行為と魂とは恐らく何らかの関連があるはずだ。そのことについてミュージシャンの話しを聞いてみたい。もしくは自分自身が何か楽器を始めてみることになるかもしれない。
恐らく、様々な試みをしていくことになるだろう。そして、一見「信仰」だとか「宗教」だとかと何の関連もないことも多く実践していくだろう。
「生活を土台とする」
僕の職業は本屋だが、生活の中心は土にある。いや、土にしたい。天候や都合を言い訳についついサボってしまうが、畑や田んぼを中心とした暮らしをしていきたいという意志がある。米や野菜を自給できてはいるが、もっと確かな手応えを掴みたい。家や店は自分で建てたり修繕したりして暮らしている。何故食べものや住居を自分の手でつくるのか、その理由を聞かれれば、「自分で自分自身のセーフティネットを築く為」と答えているが、それは理由の一部でしかない。本当は、「ただやってみたい」という自分自身のシンプルな欲求がそうさせたのだと思う(これも理由の一部でしかないが)。そしてその欲求は自分の心の深部からやってきていると感じた。実際にやってみて、初めて自分で小屋を建てることが出来た時、その喜びはかつて経験したことのない程の味わいがあった。この時の体験は、モリテツヤのラグに重要な糸として編み込まれた。一見スピリチュアルでもなんでもない、小屋を建てるという体験も僕にとっては信仰を編むのに大切な要素だ。土に触れることも同様に、癒やしと興奮を僕に与える。身体を動かして注いだエネルギーが、土を介して実りとなって僕の身体を生かす。この日常自体が信仰を編むということだ。多分、大事なのはそれが宗教性を帯びているか、スピリチュアルな物事とされているかではない。自分自身の心のずっと奥のほうに響く声に気付くかどうかだ。その声が示す飾り気のない欲求に素直に従うこと。それが大事だ。岡本太郎は「危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ」という言葉を残した。人は現時点の自分の技術、能力では到達できない地点を目指そうとする生き物だ。心のずっと奥のほうで響く声は、いつも自分以上の自分を目指そうとする。それに従うのは怖い。面倒だ。だが、その恐怖に打ち勝ち、声に従うことこそが現代でも合法的に行うことの出来る儀式のひとつであると僕は思う。それは小屋を建てることかもしれないし、米をつくることかもしれない。もしくは、今まで許せなかった人を許すことかもしれない。儀式は人の数だけ存在する。声に従って行動すれば、今までの自分が瓦解するかもしれない。そのような危険を伴うが、心の底ではいつも望んでいる何か。そこに向かっていくということが、信仰を編むということかもしれない。
このようにして、基本的には僕は自分自身の生活を土台として信仰を編んでいくつもりだ。
「スピらずにスピっていく」
以上のような考えを基に、これから「スピらずにスピる」という連載を書いていく。
金の為に人を騙すこと、人を殺すこと、無闇に生き物を殺すこと、海を汚すこと、こうしたことをもうやめたい。それは自分自身が生き延びていくことのできる環境を維持する為でもあるが、子や孫、その先を生きる人々の為でもある。そして本当は「為」なんかではなく、素直な強い欲求として、そう望んでいるたんなる欲望であると僕は感じている。僕自身の欲求としてもそう感じるし、時代という大きな枠組みの流れの中にもその欲求は現れていると感じる。そのことを茶化さずに受け止めたい。そしてこの欲望がどこから湧いてくるのかを探りたい。心のずっと奥のほうを探検したい。だが、ググって知れる心のずっと奥のほうの設定は信じることができない。思い込むことしか担保にならない世界設定にはあまり興味がない。会ったこともない予言者の予言やシナリオ、世界の真実や謎の組織の陰謀にも興味がない。だが、「体験」を伴えば僕は揺らぐかもしれない。自ら揺らぎにいきたい。そして戸惑いたい。その記録を記していくつもりだ。
自分のラグは、自分にしか編むことができない。孤独な行為だ。だがどんな「糸」がこの世界に存在しているのかを共有することはできる。その糸を共に撚ることならできるかもしれない。そしてどうか、糸をラグだと錯覚しないようにと今から願っておく。
この連載の狙いは宗教をつくることではないし、集団をつくることでもない。「信仰」という言葉の概念の幅を、少しだけ広げることにある。もしくは、「信仰」に代わる何か新しい言葉との出会いだ。今はそのことを現す言葉として「スピらずにスピる」が一番しっくりきている。連載が終わる頃には、何か新しい言葉を獲得できているだろうか。長過ぎるまえがきをこうして書きながら、危うい道に踏み入ってしまっているのかもしれないと、今震えている。だが、危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ。
*1「はじめ人間ギャートルズ」のリメイク。1996年、NHK-BS2にて放送。
モリテツヤ(もり・てつや)
汽水空港店主。1986年北九州生まれ。インドネシアと千葉で過ごす。2011年に鳥取へ漂着。2015年から汽水空港という本屋を運営するほか、汽水空港ターミナル2と名付けた畑を「食える公園」として、訪れる人全てに実りを開放している。
この連載のバックナンバー
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「スピらずにスピる」序文
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第1回「神話≒ラグ」を編み直す
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第2回「絵を描くことと信仰」 特別インタビュー 阿部海太さん
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第3回「絵を描くことと信仰」 特別インタビュー 阿部海太さん(後編)
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連載「スピらずにスピる」5月休載のお知らせ
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連載「スピらずにスピる」8月休載のお知らせ
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第4回「カナルタ 螺旋状の夢」監督・太田光海さんに会いに行く(前編)
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第5回「カナルタ 螺旋状の夢」監督・太田光海さんに会いに行く(中編)
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第6回「カナルタ 螺旋状の夢」監督・太田光海さんに会いに行く(後編)
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第8回「あんたは紙一重で変なカルトにハマりそうだね」
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第7回「どのように金を稼ぐか/どのようにスピらずにスピるか」
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第9回「モリくんはクリスチャンにならへんの?」
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第10回「メタバースYAZAWA論」
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第11回「沼田和也牧師との出会い」(前編)
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第12回「沼田和也牧師との出会い」(後編)
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第13回「バースの儀式」