王子教会への訪問したモリテツヤさん。沼田和也牧師との出会い語らった、今回はその後編をお届けします。お楽しみください。
モリ 僕はなんかこの「スピらずにスピる」の中で、イメージとしては、人間というのは編まれたラグの上に生まれて、そのラグを読み込みつつ自分の価値観とか信じていくものを形成していくんだろうと思うんですけど、読み込むと同時に自分でも編むみたいなことをしているんだろうなと。そういうイメージとして文化とか信仰みたいなものを捉えてるんですよね。仏教系だとオウム真理教とか暴走する宗教って時々出るしゃないですか。キリスト教系だと最近の統一教会みたいな。で、多分そういうの信じてる人も解くことが難しくなってますよね。
沼田 そうでしょうね。信仰ってそういうものですからね。
モリ でも今日のお説教とかを聞いてたりすると、聖書の解釈にも曖昧さを許容する余地があるというお話でしたよね。聖書に書かれていることは同じなんだけど、何度も違う読み方をする。そうした様々な読み解き方をする人としない人がいるのかなと。
沼田 そうねー。それはあるかもしれないですね。
モリ 僕は特定の信仰とか宗教を自分自身はまだ持っていないけど、惹かれ続けているんですよね。で、今日みたいに教会に来ると通いたくなるんですよ。信仰に生きる人というのは強い気持ちを持って、当たり前のこととして「世界平和」を口にするじゃないですか。宗教者って。でも、世間の中だとそういうことって滅多に言われないじゃないですか。
沼田 夢物語みたいな感じですよね。
モリ 宗教者が「世界平和」と言葉にする時、本気ですよね。その本気の気持ちが、現代社会では茶化されすぎてると思うんです。そこを乗り越えたいんです僕は。だけど、別に何の信仰も特に持っていない。果たしてどうすれば?ということをずっと考え続けているんです。それで今回みたいな「スピらずにスピる」という連載を書き始めた訳です。まだ話は聞きに行ってないけど、お坊さんになることを選んだという人にも話を聞きに行ったりしたくて。で、今回だったら牧師になることを選んだ人ということで沼田さんに会いに来たということなんです。そうして話を聞いたりしながら連載を進めたいんですが、今のところ、多分これからも自分が名前のついた宗教に入るってことはなさそうなんですよ。で、それは僕以外のほとんどの日本人もそうで、じゃあどうする?っていう。世界はあらゆる問題だらけで、日本は金もない。これからも荒れ果てていきそうな気配もする。という中で、例えば「祈る」ということだとかが必要とされそうな気がするんですけど、宗教者ではない人が祈る時、祈るって果たして何に?ってなると思うんですよ。特定の祈りの対象がない。対象が不在のままに祈ることはできるのだろうかとも思うし、その祈りを声に出して言う為の場所も持ってない。
沼田 でも、例えばNPOとかで色んな平和の為の活動をしてらっしゃる方々もいるし、例えばフェミニズムだったりジェンダー論だったり、なんらかの政治的な平等を目指す思想で集まってらっしゃる方々もいるけど、じゃああれはまったく宗教と関係ないのかっていうと、わたしはそうじゃないと思いますね。ある理想があって、その理想にその人は人生を懸けていて、それに共鳴する人たちが共同体をつくっている。色んなお金とか労力とか、喜び、これ重要やと思うんですけど、それから悲しみ、場合によっては怒り。それを分かち合ってるんだと思うんですね。それはわたしは、確かに世俗の中での話かもしれないけど、祈りに似ているというか、近いものがあるんじゃないかなと思いますね。「現実なんてこんなものなんだ」っていうことだけであれば、別になにもしなくていいじゃないですか。もう自然の傾向性に、最近よく言われるけど、ホモ・サピエンスとはこういうものだから、もう何をしようとこういうものとしてしか行動できないみたいなね、こういうことを言う人もいますよね。インターネットとかで。人間は争うものだ、ホモ・サピエンスは争うもので、だから戦争っていうのも必ず起こるものなんだ。人は人を差別して、自らを他の集団と区別するのがホモ・サピエンスで、そうやって社会を築いてきたんだから差別も当然無くならないんだ、みたいな。でも自然の傾向性に逆らおうとする自由だって、人間にはあるはずで。その自由を信じる時、それを宗教と呼ぶことができるんじゃないかとわたしは思います。だから、様々な社会運動、例えばBLM運動って何年か前にあって、2015年頃かな。あれは死者の追悼から始まってるじゃないですか。警察官に「黒人である」という不当な理由で殺された人たちがいて、その人たちを追悼する思い。この人たちが、ただ殺され、この世から消えてなくなっただなんて、そんなことあるはずがない、あってたまるかっていう怒り。そこには、その人たちは必ず救われるはずだっていう祈りがある。別にキリスト教徒であれイスラム教徒であれ無神論者であれ、そのBLMに集まった人たちが、この不当に殺された人が無意味にただ消えてなくなったなんて、そんなことあってたまるか、絶対に認めんぞっていうね。この人はまだ存在してるぞ、なんらかのカタチでって。もうそれは、祈りですよ。いわゆる宗教というカタチはとっていませんけどね。「人は人を差別するものなのだ。」というあきらめに対して、「いいや、克服できる」と。ヒトは差別をするものだという、自然の傾向性にとことん逆らってやるぞっていうね。それは祈りだし、信仰だとわたしは思ってます。だから、わたしは多くの人が宗教を信じないかっていうと、宗教と自覚してないけれど、己の理想だったり夢だったりに向けて足掻こうとする時、それは祈っているんじゃないかなと思ってますね。
モリ そんな気がしますね。
沼田 だからツイッターとかだとBLMだったら例えば略奪とかの動画ばっかり取り上げて「それ見たことか。所詮、理想とか言ってるけど略奪したい口実があるだけだろ」とか言う人がいますよね。斜に構えて現実べったりっていうのも、それもひとつの選択ですけどね。でもいつも世の中っていうのは、その現実べったりからべりべりって引き剥がしたいっていうのがあって。皮まで一緒に剥がれて血が噴き出すんですけど。血を流しながらでも、それでも、おのが身に張り付いたものを引き剥がそうとする動きによって歴史が紡がれてきた側面もあると思うんです。痛くても引き剝がそうとする原動力が、私は祈りだと思ってます。
モリ そう思います。そういう人たちの様子を見て、なんだろう、名前はついてないんだけど、凄いスピリチュアリティを持っているって思って、「スピらずにスピっている」みたいに思います。
沼田 「スピらずに」の「スピ」は多分、明確な明文化された物語や所作、作法のことだと思います。「スピらずに」の「スピ」はね。で、「スピる」のほうの「スピ」はそういう現実ベッタリから必死で身を剥がしてなんらかの理想だったり夢だったりに身を投じていこうとする人間の動きだと思いますね。
モリ あー、一個なんかすっきりしました。人に「スピらずにスピるって何?」って聞かれた時に、あんまりうまく説明できなかったんですよ。あと、気軽に聞いていいことなのかちょっと分からないんですけど、沼田さんが過去にドン底状態にあった時、閉鎖病棟に入った時や阪神大震災に遭った時、そのドン底の時にまた浮上する時のエピソードを著書に書かれていましたけど、閉鎖病棟に入って復帰した時のきっかけは精神医療だし、阪神大震災の時には家族との時間だったりして、そのドン底の時に救いをもたらしたのがキリスト教ではなかったじゃないですか。宗教を信じる動機としては、ドン底の時に光をもたらすような体験があるから、人は宗教を信じるのではないかと僕は思っていたんですけど、もしかしてそんな感じでもないのかもしれないって、著書を読んだ時に思ったんですよね。
沼田 むしろ神から離れたかったから、閉鎖病棟では仏典とかばっかり読んでたんですよ。もう聖書の言葉には触れたくなかった。「ボキャブラリー」ってさっき言いましたよね、「縺れてるボキャブラリー」って。その縺れてるものを部分的にであれ、解きたかったんですよ。パージしたかったんです。だから、むしろ自分にとっては異質な仏教の言葉が広いお寺のお堂に入ったような清々しさっていうかね、そういうものとして感じられたんですよね。あえてお寺が良かったっていうか、あの時は。それはやっぱり幼少時から、『街の牧師』のほうに書きましたけど、精霊流しだったり法事だったり、一方では自分はお寺に触れてきたわけで。肌感覚的なものとして、そういうものに安心感を見出す。それが大きかったんでしょうね。まあせめぎあいですよね。一方で神様を信じるっていうことが困った時の神頼みじゃないけど「神様助けてー」って、震災の揺れてる時も命乞いを神様にしてるわけです。だけど「仏様助けて。南無阿弥陀仏。」とは言わなかったわけですよ。「神様助けて死にたくない」って言いながら、家がばーって揺れた時にね。だけど、太陽の下(外)に出てきて、たくさんのご遺体を目にしたとき、「復活」だなんだってなんとなく信じてたものが全部吹っ飛ぶわけですよ。いっぺんにね。生きていた人々が物体になってるやん。圧倒的に物体やんって。昨日まで生きて動いて笑ったり泣いたりしてたはずなのに、物体になってるやんっていうね。それがもう不思議でしょうがなかったわけですよね。立って歩いている自分と、横たわって死後硬直している物体との、あまりにも開いてしまった溝っていうものに、そんな復活だなんだと橋渡しをすることが、永遠の命とかね、そうしたことがどうしても気が遠くなるほど無理って思ったんですよ。だから、そういう時はやっぱり家族だったり医療だったりって大事ですね。以前キレて閉鎖病棟に行った時も疲れきっていたわけですよ。牧師の仕事っていうか、園長の仕事にも。なにもかも投げ出したいわけですよ。主治医は厳しい人で、しかもクリスチャンだったんで、結局信仰と向き合わざるを得なくなるんですけど。まあとにかく逃げ出したかったんです、思いとしては。だから、同時進行なんでしょうね。自分では今日も説教で言いましたけど「もう教会から退きたい、逃げたい、信仰とは綺麗サッパリ足を洗って、違うところに行きたい」っていう思いがありつつ、葛藤ですらなく、まったく同時進行に何故か神を求めているっていう。普通葛藤っていうとわかりやすくぶつかり合うことを言うわけですけど、なんでか分からない、まったく不思議な仕方で多分同時進行なんでしょうね。どっちのほうが前景に出ているかの違いなんでしょうけどね。その困難な時は「棄教したい」の方が前景で、「神を求める」の方が背景に退いてるんでしょうね。
モリ そういう感覚って、沼田さんと仲良くされている牧師の方々にもあるんでしょうか?
沼田 どうなんでしょうね。それは分からないなあ。あんまりそういう極限体験について分かち合ったことがないというか。やっぱりよく聞くのは「極限状態で神と出会った」という話ですね。わたしは遠藤周作をそんなに読んだわけじゃないけど『白い人・黄色い人』っていう初期の作品があるんですよ。その中の『黄色い人』っていう作品がすごく好きで、彫りの浅い日本人の顔っていうのは、彫りの深い西洋人のような苦悩をそこに浮かべてないんだと。なんかのっぺりした顔なんだ、みたいなことを主人公が言うシーンがあって。その西洋人的な「激しい葛藤!」とか、「信仰の苦悩!」みたいなね、そういうのは我々にはないよと。もっとぼよーんと曖昧に横滑りしていくような信仰ですよっていうことを、まだ若かった遠藤さんが書いてるんですよ。で、それはすっごい腑に落ちたんです。「信仰の苦悩が、、、」とか、「実存が、、、」とか、年取った人からよく聞いたんだけど当時、まだ22歳とかでしたけど。全然僕はピンとこなくて。実存とか、苦悩とか。いやそりゃフィジカルに苦しかったりするんですよ。精神疾患があってパニック障害とか鬱とかね。フィジカルに苦しいけど、苦悩とか実存とか言われてもなんのことだかよく分からなかったんですよね。ご利益があるものならなんでもいいというくらいの素朴さだったんですよ僕としては。そんな高尚で高邁な何かって感じではなく。そんな「ニーチェが~!」とか言われても、神は死んだとか、いや死んでようが生きてようがどっちでもええしおれって思ってたしね。ドイツ人が何言おうが知ったことかって思ってたし。だから、まあ、よく信仰の文脈でロマン主義を乗り越えて、実存主義へみたいなね、なんかキルケゴールとか言われたりするけど、いやロマン主義でええやん別にとかね。なんか僕自身は苦悩して神と出会ってとかはあんまりなんか親近感ないですね。
モリ 色んな信じ方があるんですね。そこら辺の感覚って、僕とか宗教者じゃない人の理解の仕方が極端なのかもしれないですね。牧師をしているからなんらかの極限的な体験があるに違いないみたいな思い込みがあるのかもしれないです。
沼田 「この人は強い信仰がある」とかっていうのも結局は他人の評価ですよね。だから見る人によって、沼田牧師が強い信仰を持っていると思うかもしれないし、別の人にしたら沼田牧師は不信仰だって思うかもしれないんですよ。そんなのはけっきょく相対的な評価でしかないので、わたし自身にとってはどっちでもいいことなんですよね。信仰深かかろうが不信仰であろうが。だから神とくっついたり遠ざかったりしながら今まで歩んできたっていう、そのことが大事なのであって。関西学院大学の神学部に入る前って、ある薬科大学に行ってたんですよ、中退したけど。それって阪神大震災の後でね。医学部に行きたかったんだけど挫折して、薬学部行って、でもひどい鬱で禄に勉強もできなかったんです。結局中退するんですけど。ただその時にね、解剖実習の見学っていうのがあったんですよね。医学部の大学病院の遺体の解剖に立ち会わせて頂くっていうのがあったんですよ。で、私は取り出した臓器の重さを計る役目を仰せつかったんですよね。色んな臓器の重さを計るんですけど、脳を手渡された時にね、まだ暖かい感じが手袋ごしに分かったんですよ。60代の女性の遺体でしたけど、まだ暖かいなって思って、脳が。この人の記憶とか、この人が考えてきたこと、喜びや悲しみや怒りや色んなことは、どこ行っちゃったんだろうって。手のひらの上にある脳を見て、暖かさを感じて、それを計りながら。強烈に思いましたよね。その時にその、少なくともその瞬間は脳の物質としての、タンパク質その他の塊としてのそれがね、あまりにも迫ってくるので、神とか復活とかそういう超越的なものってなんにも一切思い浮かばなかったですね。だからその、人によってはそういう経験をした時に、「ああ、これこそが死と復活なんだ」って思うんでしょうけど、僕はその時は「死」は強く思ったけど「復活」ってことは吹き飛んだわけですよ。だからそこから、でも何故か復活っていうボキャブラリーが、語彙がやっぱりどこかにこびりついて離れないんですよね。だって、それがこびりついてなかったら、縺れてるんじゃなくて結びついてるだけ。結びついてるだけだったら解いて捨ててますよね。復活なんていうのは現代の自然科学の世界においてナンセンスで信じるに値しない、というか信じるという行為自体が、エビデンスなしにそれを確信するということだから現代的ではないうんぬんって言ってね、もう離れてたと思うんですよ。でもそうじゃなくて、こびりついて、縺れているようなものだったんです。その復活とかその他もろもろが。もう今更ヘラでゴリゴリやってこそぎ落とそうとしても、縺れてるのを一所懸命解こうとしても、あるいは縺れた玉をハサミでジョキジョキやろうとしても、切れないし解けないしちぎれないんですよ。だからこびりついてる以上、受け止めるしかなかった。だけど、その縺れ、こびりついて取れないものが、だんだん自然なこととして腑に落ちていった過程が、実際に牧師になってみて、お葬式を自分でやる、自分で葬るという行為だったんです。死者を送ることの繰り返しのなかで、「復活」を自然なこととして理解していった。
モリ キリスト教でいう「復活」ってどういうことなんですか?輪廻みたいな感じですか?仏教的な生まれ変わりみたいな感じとはちょっと違うんですか?
沼田 そうですね。どういうふうにアイデンティティが連続するのかは分からないけれど、あらゆる苦しみから解き放たれた「このわたし」が、生前のわたしというものをなんらかの仕方で保持した状態で神様の前に立つということですね。復活するっていうギリシャ語は、「起き上がる」っていう意味なんですよ。「あの方は復活された」って天使が告げる場面があるんですけど、直訳すると「あの方は起こされた」って書いてあるんですよ。寝てるのを「起きろ」って言って起こされた。だから死が、いわば起きない眠りであるとするなら、起きないはずなのに起こされて起き上がった、立ち上がったっていうのが復活なんですよね。そこにはかなり身体的なイメージがあるわけですよ。幽霊とかじゃないっていう。まあでも、それが現代の自然科学的なものに照らしてあまりにもナンセンスに聞こえるがゆえに、今キリスト教を信じる人は少ないと思います。
モリ シャーマニズムみたいなことってどう捉えてますか?
沼田 進藤龍也先生っていう友達の牧師がいるんですけど。元受刑者でヤクザだった人です。その人はキリスト教のなかでもペンテコステ派っていう信仰なんですけど、悪魔祓いをしたり、病気の癒やしを祈ったりするんです。それで実際元気になる人とかいたりするんですよね。だから、ある意味、宗教学的にはシャーマニズムと親和性が高いですね。わたし自身はそれができないけど、自分ができないことを「無い」と断言はしないです。この進藤牧師の教会に、アフリカの牧師さんが説教をしに来たことがあって。イスラム教の国の牧師なんですけど、彼の説教や奇跡でキリスト教に改宗をする人が今何万人と増えていて。だから本国では結構命を狙われたりするそうなんです。で、その牧師は「死人を蘇らせたことがある」っていう触れ込みでした。アフリカのイスラム教の地域だと、それぐらいのインパクトがないと信じないと思うんです。文化的な文脈がそれぞれあるでしょう。シャーマニズム的な土壌が強い、しかもイスラム教の土地で、今僕が喋ってるような理屈だけでは絶対相手にされない。「死人さえ蘇らせるあの人は何者だ?へ~、キリストってのを信じてるのか」っていうふうなね。そういう文脈でないと伝わらないキリスト教というのも世界にはある。
モリ 「スピらずにスピる」っていうのを進めていくと、そういう歴史のある宗教で、神様を自分の中でどう位置づけるかっていう、そういう理屈の部分と、理屈じゃない世界のことも覗き込まざるを得なくなってくるはずだと思っています。
沼田 人類学っぽいですね。レーン・ウィラースレフっていう人の『ソウル・ハンターズ』って本があるんですけど。ユカギールというシベリアの少数民族を調査した本です。その本で、カテドラルに象徴されるような体系だった信仰だけが信仰じゃないってことを彼は言うわけですよ。場当たり的に見える、色んな呪術の寄せ集めっていうか。いや、寄せ集めですらなくて、別にそれらを寄せ集めるだなんて発想さえないというか。そういう信仰の在り方っていうものがあるよっていうことを、彼はその狩猟採集民族のユカギールっていう人たちを調査しながら語るわけですよね。彼がハイデガーだったかの哲学を利用して道具的存在みたいなことを言うわけです。あれは欄外に書いてたエピソードだったと思うけど、たとえばノートパソコンで原稿を書いている時に、ノートパソコンなんかに意識はいかないんですよね。原稿にしか注意は向かない。だけど、ノートパソコンが作動不良を起こすようになった時に初めて「あれ?」って道具であるノートパソコン自体に意識がいって、それを修理しようかなってなるんです。呪術っていうのもそれに似ていて、世界なんていうことは、普段はユカギールもまったく気にもしてない。ましてや精霊だの神だの、ほとんど気にもとめてない。だけど、例えばエルクが、エルクってでかいヘラジカですけど、あれが何故か獲れない。なんで?と。そういうトラブルになった時に世界を調整、再調整するっていうかね。トラブル時に初めて世界というものが立ち現れてきて、その対処法としての呪術があると。すごく腑に落ちたんですよね。キリスト教も、なんかややもすると、信じる為には教義体系全部を理解し、受け入れ、信じますって言わなければキリスト教徒ではないというイメージが濃厚ですけど、そんなことできる人間はほとんどいない。私だって別にキリスト教の教義体系を全部覚えてるかっていうと、覚えてないですよそんなの。聖書だって、丸暗記なんかしてないんで。「あれ、あの箇所どこだっけな?」って迷うことしょっちゅうあるしね。だから例えば「街の牧師 祈りといのち」(晶文社)でいろんな人と出会ったりするわけですけど、その色んな人と出会うたびに考えてることは、おたがい全然結びついてないんです。バラバラ。その度、その度にその人の固有の問題と向き合いながら神に祈ったりするわけですけど。あの時の祈りと、この時の祈りとは全然結びついてない。場当たり的です。本にしてみれば、「街の牧師 祈りといのち」ってタイトルに貫かれて、まとまった出来事のように語られてますけど。実際にそういうことしてる時は、バラバラ。つまり、今こうやってモリさんと喋ってる時に、今日訪れたFさんのことを考えてるかっていうと考えてないわけですよね。だから、そのバラけて散乱していること、一つ一つの出来事に個別に向き合っているっていうことは、信仰のうえで普通にあることだなってわたしは思ってますよね。
モリ クリアになってきました。
沼田 何らかの宗教にコミットするっていう仕方で、スピリチュアリティへのとっかかりをつくるというのは有り得ると思います。例えばキリスト教に入信するとか、どこかの檀家になるとか、氏子になるとか。なんにもとっかかりが無いと、その「スピらずに」があまりにも負荷が大きすぎて、後半の「スピる」の部分にいけない人も多いと思うんでね。だから「スピらずに」が重すぎて、「スピる」ができない人の為には便宜的に「スピらずに」と言える場所が要ると思うんです。それは檀家、氏子、信徒になるとかで良いと思います。そこで疑問に感じたり、これは違うって思ったり、これはやっぱりそうだったんだなっていう在り方でスピっていくっていうのもアリだと思います。
モリ 結構逆説的な感じですね。「スピらずに」だと「何にも入らずに」みたいな感じするけど、むしろ入るからこそ、そこで「スピらない」ことを担保するみたいな。それは大事なことかもしれない。
沼田 広い海って自由ですけど、浮袋が一個あるとそれに捕まっていられるから、溺れずに済むっていうことですよね。まったく自由であるっていうことは、すごく負担が大きいですよね。
モリ 牧師の人にしても、沼田さんの本を読んでいると、僕が「スピらずにスピってる」って思う人はなんか宗教者なんですよ。既に。仏教のお坊さんにしても、牧師にしても。だからなんだろう、足場としてはキリスト教や仏教を足場にしてるけど、なんかたんなる、たんなるっていうか、哲学者なんですよね。それに僕は憧れてるって感じですよね。今日の説教も哲学の話なんだろうなって思いました。
沼田 テクスト論っていうか。イエスの意図だったりそれぞれ聖書を書いた人の意図っていうのは当然人間なんだからあると思います。ただ一方でね、イエスも「よーし、今日はこういうこと言ってやるぞー」とか言って、思ったことをただ垂れ流したとは到底思えない。目の前に人がいて、その人の顔を見てた時に「あー!」って思いついて即興で喋った部分はだいぶあると思います。だから目の前の人との、今風に言うと「コラボレーション」なんですよ。イエス単独の作品しゃなくて。イエスのスタジオワークじゃなくてライブなんですよね。
モリ その場その場での文脈があるってことですよね。
沼田 そう。だから、聖書を読んで自分はこうだと思って、そのあと注解を読んで当時の文脈としてはこうだったと知ったら、「あれ?僕が思ってたのと違うな」ってことがいっぱいあります。でもそれもまた面白いんですよ。僕は僕の文脈で、イエスの言葉を誤解した。良い意味でね。その誤解が面白いわけです。イエスは2000年近く昔のイスラエルって場所で喋ってるんだから、僕が全部分かるわけがないんでね。その距離感による誤解が面白いですよ。そうやってキリスト教の歴史は紡がれてきたんじゃないかなって思うんです。
モリ 誤解が面白いって世間の人は思ってないと思うんですよね。
沼田 そうですね。でも誤読する面白さなんですよね。意図も曖昧なものなんです。例えば僕が、まあ人によるでしょうけど村上春樹みたいな人が小説書く時に、プロットとか登場人物の肉付けとか明確に計画して書くっていうようなことは聞いたことありますけど、わたしはもちろん素人ですから、思いついたことを書くわけですよね。だけど、よし、こういう内容を書いてやるぞって書いた箇所ってあんまりないんですよ。今までの本って。書きながら打たれた文字が目に入ってくるじゃないですか。なんか一行書いたら。そして文字に触発されてまた次の言葉が勝手に出てくるみたいな。そういうカタチでテクストができあがるわけですよね。だから、最初に固定的な意図があって、その意図を表出したっていうのがテクストであるってことはまったくないですね。画家の方が、あるいは彫刻家の方が塗り進めながら、あるいは彫り進めながら、どんどん筆や鑿の動かし方を変えたり、向きを変えたりするようなものですよね。
礼拝をするという時間について
モリ 以上でインタビューは終えたいと思います。ありがとうございます。礼拝の時間も含めてとても良い時間でした。礼拝をするって、良い朝の時間だなってやはり思いました。こういう時間を日常で宗教者ではない人も持つことはできないだろうかと思いました。
沼田 やっぱりね、縛りって要るんですよ。家でこういう時間を持とうとしてもテレビもあるしスマホもあるしパソコンもあるしってなったらね、どうしても普段通りのことに身体って流れちゃうんですよ。仕事が休みでもね。自然の傾向性に逆らうってさっき言ったけど、逆らおうと思ったら逆らう場所とか手間が半ば強制的に用意されてないとなかなかできないです。それがお寺だったり教会だったり神社だったりっていう。習慣づけられたものとしての場所。そこに行ったら強制的にスマホは見なかったりする。そこにいる間は。
モリ そういう時間を宗教者ではない人はどうやったらつくれるかなあって考えちゃいますね。僕はなんか最近、木を見に行ってます。樹齢何百年とあるような巨木を。そういう何百年という時間の蓄積って圧倒的じゃないですか。その圧倒的な時間の蓄積にペタペタと触れにいくっていうのが、今のところ宗教者ではない自分みたいな人間が持てる聖なる時間かなとか思います。
沼田 普段から折に触れてそういうのに触れられるといいですね。
モリ 街の教会に入ったのも今回が初めてです。こういう場所が密かにあちこちにあるんだよなって。まあ密かじゃないのかもしれないけど、自分は今まで立ち入ることなく通り過ぎてただけで。でも、大変な仕事というか、使命だとも感じました。訪れる人全てを日々受けいれるというのは。牧師って神様を背負ってるから、訪れる人を無碍にできないじゃないですか。
沼田 神様背負ってるからできるというのはあるでしょうね。嫌な人と出会った時に、神様抜きだったら、本当にただの嫌なヤツだったで終わってしまう。なんでおれがこんなヤツと時間を共有しなきゃいかんのかと。さっさとどっか行けで終わりでしょ。だけど、神様を背負ってるから、いやなんかこれには意味があるって、凄く嫌だけど、でもなんか意味あるよなって思えるわけですよね。あと、神様を背負ってるから逃げられるという側面もあります。もう耐えられないから、この人のことは切るっていうふうにもできます。神抜きだと中途半端にかわいそうとか、やっぱり嫌われるのも嫌だしとかね。なんか、ずるずるとその人に合わせてしまいそうになりますよね。でも、いやこれは自分の為にもあの人の為にもならないんだと。もう後はきっと神がなんとかしてくれるから切るっていうのもできます。
モリ 本当、解釈の余地がありますね。それだけに難しいって感じもあります。
沼田 答えなんかない。でも答えは幾らでもある。だから、あとはどう受け取るかですよね。それを絶望と受け取るのか、希望と受け取るのかってことですよね。さしあたり今は僕は、それを希望と受け取っています。
モリ ありがとうございました。
しつこいほどに牧師である沼田さんに「何故キリスト教徒で在り続けるのか」を聞き続けたインタビューだった。文字起こしをして、よくぞ沼田さんは最後まで付き合ってくれたものだと思う。本当にありがとうございました。躓きながらも牧師で在り続ける一人の人間の生の奥行きや幅広さを感じると同時に、キリスト教という宗教の深みも感じた。哲学とは人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、理性によって求めようとすることだ。では宗教とは?宗教とは「非・理性」によって世界の根源の在り方を求めるものと思われがちかもしれないが、この日感じた宗教が果たしている役割は、哲学をはじめる為の最初のとっかかり、土台だったように思う。宗教者になるということは、非・理性的になるということではない。むしろ、宗教者になることで哲学と分かちがたく結ばれてしまっているということを沼田さんとの会話で感じた。果たして僕は生きている時間の中で何を足場にしていくのだろうか。この探求、営みは一生続くだろうと思う。
沼田和也牧師の著書も是非手にとって読んでもらえると嬉しいです。汽水空港でも仕入れています。
・『牧師、閉鎖病棟に入る』(実業之日本社)
・『街の牧師 祈りといのち』(晶文社)
・『弱音をはく練習~悩みをため込まない生き方のすすめ』(ベストセラーズ)
モリテツヤ(もり・てつや)
汽水空港店主。1986年北九州生まれ。インドネシアと千葉で過ごす。2011年に鳥取へ漂着。2015年から汽水空港という本屋を運営するほか、汽水空港ターミナル2と名付けた畑を「食える公園」として、訪れる人全てに実りを開放している。
この連載のバックナンバー
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「スピらずにスピる」序文
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第1回「神話≒ラグ」を編み直す
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第2回「絵を描くことと信仰」 特別インタビュー 阿部海太さん
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第3回「絵を描くことと信仰」 特別インタビュー 阿部海太さん(後編)
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連載「スピらずにスピる」5月休載のお知らせ
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連載「スピらずにスピる」8月休載のお知らせ
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第4回「カナルタ 螺旋状の夢」監督・太田光海さんに会いに行く(前編)
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第5回「カナルタ 螺旋状の夢」監督・太田光海さんに会いに行く(中編)
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第6回「カナルタ 螺旋状の夢」監督・太田光海さんに会いに行く(後編)
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第8回「あんたは紙一重で変なカルトにハマりそうだね」
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第7回「どのように金を稼ぐか/どのようにスピらずにスピるか」
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第9回「モリくんはクリスチャンにならへんの?」
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第10回「メタバースYAZAWA論」
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第11回「沼田和也牧師との出会い」(前編)
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第12回「沼田和也牧師との出会い」(後編)
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第13回「バースの儀式」