2022年も終わり、いよいよ2023年が始まりました。お休みもしつつ、更新日も発表とは違う日程で上げてきた2022年の「スピラずにスピる」ですが、2023年もこのままの調子で更新を続けていきたいと考えております。お楽しみの皆様には大変恐縮ではございますが、イン・セクツのInstagram(@insects_publishing)にて、更新のお知らせはさせていただきますので、そちらのフォローをしていただければと存じます。さて、2023年の汽水空港店主・モリテツヤさんによる「スピラずにスピる」は、今年1年の本連載を左右する宣言というと大袈裟かもしれませんが、そんな新年に相応しい内容です。ぜひ、最後までお楽しみください。そして、汽水空港で本を買いましょう。
僕は人がどのようにして金を稼ぐのかを知ることに興味がある。何故なら現代社会で生きていくことの根底にいつも金が絡んでくるからだ。金を稼ぐ意欲の有り無しを問わず、巻き込まれざるを得ない仕組み、それが資本主義経済。あらゆるものを金で買うことができる時代になって以降、「金さえあれば生きていける」というのは個人の寿命の範囲内であれば事実になった。この時代に関心を持たれるのは、どうやって金を稼ぐかというその方法だ。個としてこの中で生き延びるには、勝ち上がる為の能力を高めること、需要を嗅ぎ取る嗅覚を鋭く保つことなどがある。あるいは、集団として生き延びるには心を平静に保ち、静かに時間を金に変換し組織に捧げるやり方などがある。どちらの方法もしんどい。だから、どうにか別の道をつくれないかと考えながら生きている。そして、「金さえあれば生きていける」という時代も本当はもう終わっている。自然環境が寿命まで保つかどうかも危ぶまれているし、人間の心や身体も寿命を迎える前に疲弊し力尽きている。
こうした時代に生まれた僕のひとつのアプローチとして、まずは巻き込まれる度合いを減らす方向に力を注いでいる。それは支出を減らすことだ。僕は自分の店を自分でつくり、住処も朽ちかけた家を直しながら暮らすことで家賃を安く抑えている。米もつくっている(野菜は今年全然つくれなかった。来年はがんばるぞ~)。食費も抑えることができる。食べ物と住居さえどうにかなれば、最低限は生きていくことができるはずだ。
しかしそれでも田舎暮らしに必須の車には税金がかかるし、日々のガソリン代を稼がなくてはどこにも行けない。住民税やらのいろんな税金が全部高い。そして支払いを求められる督促状を溜め込んでおけるだけの図太い精神力が僕にはない。愛国心みたいなものを抱く気持ちが小さい僕でさえ、「払え」という要求に応えられないとなにか人として過ちを犯してしまっているのではないかという気がしてしまう。そのプレッシャーに耐えることができない。だから生活に困窮しないだけの現金、人としての尊厳を保てていると思えるだけの現金は稼ぐ必要がある(本当に厄介だなこの気持ち)。それで僕はこの社会の、小さな田舎町で本屋という商売をしている。この資本主義社会の中で商売をしながら暮らし、その中から、別の生き方の可能性を探っていきたい。もしかしたら社会から隔絶されたもうひとつの世界、共同体のようなものをつくれば金と無縁の世界を創造することもできるかもしれないが、僕はその方向へ進んではいない。今のところは。そうしたアプローチがなかなか難しいのだということは想像すれば分かるし、共同体の記録も本になっていて読むことができる。過去に試されたことは記録として読んで学び、この時代に生まれた自分は、この時代で試すことのできる方法を試したい。それが先人に対するリスペクトだと思う。この時代に日本という場所に生まれた自分は、今、この国に暮らす大多数の人々と同じような暮らし方をしながら、金というものとなるべく気持ちよく付き合うことはできないものかとジタバタしている。つまり、「どうやって金を稼ぐか」という方法ではなく、「どのように金を稼ぐか」という、その過程に重きを置きたいということだ。
金の稼ぎ方を考えるのが何故「スピらずにスピる」に関わるのか。それは必要に迫られた金を原因として、様々な嘘や破壊、悲劇が生まれているからだ。だからなるべく、個々の心の中に潜む「おてんとさま」に恥ずかしくないような金の稼ぎ方を確立したいと思う。金の稼ぎ方には知恵と技術、倫理感が現れる。そして僕は、その方法が分かっていないのである。困った。
さて、これからどのようにモリ家が困窮することなく、人を騙すことなく、搾取することなく、嘘をつくことなく、自然を破壊することなく、虚無に陥ることなく、自分を否定することなく、他者を否定することなく、歓びを交換するように金を稼ぐことができるのか。これはモリ家だけでなく、現代社会を生きるあらゆる人々にとって重要な問題だ。政治の悲劇も戦争も「金の稼ぎ方」が原因にあるのではないかと僕は思うし、宗教の悲劇も「金の稼ぎ方」が原因にあるのではないか。壺を高額で売りつけるのが良い例だ。悲劇に繋がらない金の稼ぎ方を見つけること。それは宗教者も、商売人も、公務員も、立場を問わずあらゆる人々にとって重要な難問として今目の前にある。
先日、とあるお坊さんが店を訪れてこう言った。「寺は金食い虫なんです。修繕費、維持費に金をとられて生活できないから、他の仕事もしているんです」と。僕はその言葉を聞くまで、お坊さんというのは俗世間の金儲けなどの雑事に囚われることなく、仏の道に専念できる立場にある人々なのだと思っていた。人々がお布施をするのは、この世の雑事に囚われず、物理的・精神的アジールをつくることのできる立場にあれる人の存在を願ってのことだろうと思っていた。だがそうではなかった。現代のお坊さんは、仏の道を歩みつつ、経済的問題にもアプローチしなければいけないという険しい道を歩むことを強いられているのだと知った。逃げ場なし。
可能性を感じるのは、技術を売る人々だ。大工、美容師、農家、様々な職人たち。その技術を必要とする人々が依頼し、技術を提供することの対価として金を得る人々。そこには悲劇がない。芸術とは、虚構で回るこの現代社会の中で、悲劇のないやりとりを通じて気持ちよく金を得るその技術のことなのではないかとすら思う。僕も何か技術を得ることができないだろうかと思う。
だが一方で、金によって「生きる」という営みをバラバラに細分化されているとも感じている。素人ながら自分の家を自ら建てる、土から作物を得る、そのことを通じて大きな歓びを感じて生きてきた。全てを自分でやるのは難しいが、金で他者に生活を代行してもらうように生きるのは虚無を感じる原因になり得る。そもそも生きるという営みは現金を得るという一点で成り立つものではなかったはずだ。人は住居をつくり、食べ物を育て、あるいは採集し、そして調理し、子を育てる。老人と共に生きる。あらゆる仕事が個人の生活の中に包摂されていたはずだ。生活の仕事のうち、どれか一点に特化し、金を稼ぐ手段とすること。分業化の進んだ社会は人間を幸福にしているのだろうか?
そんなことを考えている我が家、モリ家の収入は本屋の売上と、こうした時々声のかかる文筆業だ。仕事として本屋を選んだのは、ひとつには本を売ることに罪悪感を感じないということがある。本屋は本を人に無理やり売りつけるのではなく、その人の心が求めるものと本が出会うのを待つ。その謙虚さに僕は惹かれた。だから本屋をやっている。だが、予想していたことだが、その売上は未来に不安を覚える程微々たるものだ。文筆業も、今のところは大した稼ぎにはなっていない。そう、「いかにして金を稼ぐのか」というテーマは最近の僕の切実な悩みでもあるのだ。以前までは、モリ家の財政がピンチに陥った時には僕は建築現場へ出かけていた。その場合は妻、明菜が店番をしてくれるので店も開けることができた。だが現在は子育て真っ最中。建築現場へ行くと店を開けることができない。「稼げないなら鼻から店を開けなければいい」という声も聞こえてきそうだ。だが、本屋をやる理由がそもそも稼ぐ為ではないのだ。僕にとって本屋をやるということは信仰に等しい。その信仰が何をもたらすのか。僕は「世界を変えうる」と思っている。今こうして書いている金に関する問題も、僕自身の生活から編み上げられた実感と、どこかで読んだ文献による知識とが混ざり合っているはずだ。本はこうして僕自身を変えてきた。同じように、人は本によってそれぞれに変わっていく。その先に今よりもちょっとだけマシな未来の訪れを期待することができる。それはもはや信仰に近く、やめるということはできない。信仰は生きる意味や目的と分かちがたく結びついているものだ。一方、「純粋な金稼ぎ」には意味が無さすぎる。金のない我が家は意味がなくとも金を稼がなければいけないという強い理由には満ちているが。信仰という強い意味と、意味はないが強い理由の狭間に今立っている。ではどうするか。それがまだ分からないのだ。
この連載の序章で、僕は金に囚われている現代の価値観を「お金教」だと揶揄した。だが今、僕自身が四六時中金のことを考えている。金のことばかり考えるのは金に囚われているからだ。は~…、僕自身がお金教の教徒だ。だが、ふと気づいた。こんなに金のことを考えているのは金が足りないからで、金のことを考えなくて済むくらいの稼ぎを得ればいいのではないか? その額はたいした額じゃない。月に20万もあれば我が家は余裕で暮らしていける。その程度の金だったら、気持ちのいいやり方でどうにか稼げるだろう。さあ、考えよう。
そして一ヶ月間、僕は考え続けた。昔の人々は、必要なものをつくってそれを売ることで生きた。例えば草鞋だ。草鞋は消耗品で、いつでも誰かが必要とする。僕もそんなようなものをつくりたい。だが考えるほどに、人が日常で必要とするあらゆるものは既に100円均一で手に入ると思えてしまう。用途を満たすだけならば安価なもので良い。かといって、特別なブランドを築いて高価なものとして売るのも自分には難しい。何をすればいいだろう。やがてグーグルに「副業」とか検索ワードを打ち始めた。血迷っていろんな大富豪系ユーチューバーの動画を観てまわった。青汁王子、ヒカル、DJ社長(彼はユーチューバーではなくアーティストとのことだ)、みんなリスクを背負い、何度か破滅しながら大金を手にしていた。ショックだったのは、彼らが良い人たちだったことだ。たんなる金の亡者のクソ野郎だと勝手に偏見を抱いていた。特にDJ社長のことは凄く好きになった。DJ社長は人生のアップダウンを繰り返し、孤独を味わい、多額の借金も背負っている。なのに、人や社会に対して恨みを抱いていない。人は生きていく中で、どこかで人生の泥沼にハマる。その時にどこか心を屈折させてしまうものだが、DJ社長にはそれがないように見える。彼らの金の稼ぎ方に意味がないとしても、無意味の中で魂を磨いていると思った。言ってしまえば、人生、生きることにも意味はない。この生きられる時間の中で体験する全てを味わい、晴れやかに死ねれば良いのではないかと僕は思う。僕は自分の仕事の意味や生きる目的を何か高尚なものに仕立て上げて、心が屈折しているのではないかという気がしてきた。
そして、気付いた時には、鬱に陥っていた。未来にも自分にも何も希望が持てない。
いやだめだ、そんなことではいけないと思い直せたのは最近のことで、今ようやく心を新たに生き始めることができている。技術は一朝一夕では身につかないし、何の技術を身につけたいのかもまだ分からない。でも、やりたいことはある。それは鳥の巣づくりだ。人が生活の中で必要なものをつくる方向で考えても、僕は何も思いつくことができなかった。人が生きていくのに必要なものはもう既に世の中にたくさんある。この一ヶ月、必要を見続けて疲れてしまった。意味や目的にも疲れてしまった。そんな時に、鳥の巣はちょうど良いと思えた。人ではなく、鳥の為の住居をつくりたい。家の庭や畑に設置して、そこに鳥が実際に住み始めたら、人もちょっと嬉しくなるかもしれない。何の役にも立たないかもしれないが。だが鳥の訪れを静かに待つ喜びが日常の中で得られるようになるというのは、なかなかいいのではないか。そこには静かな祈りがある。そして最も重要なことは、意味や目的を動機とせずに手を動かすことに没頭し何かをつくることにある。「何のために生きるのか、生きる目的は何か。」常に頭の片隅から聞こえてくるこの言葉の重圧から解放されるひとときが欲しい。その手段として、耳ではなく手を動かすことに解放の可能性が潜んでいる気がする。
鳥の巣のイメージはもう出来ている。まずは自宅の裏山に生えている竹を切り、竹ひごをつくる。その竹で骨格を編み、土を塗って乾燥させる。仕上げは漆喰だ。雨風も凌げる、安心できる家を鳥の為につくりたい。そして、あわよくばこれを売って億万長者(月収30万円)になりたい。結局金かよ!YES!
白状すると、僕は「輪廻転生はある」という世界設定を生きている。その理由はまた別の回に書こうと思う。輪廻転生があるとするならば、この時代、この場所に生まれた自分はこの環境で味わうことになる喜びと苦しみ、あらゆる全てをジューシーに味わうのが良いだろうと思っている。金を稼ぐということが課せられつつ、資本主義経済というシステムがうまく機能していないようなこの時代、このシチュエーションに生まれ、絶望して自死することなく、気持ちよく金を稼ぐという体験をするのも今生で大事なことだろう。鳥の巣で金が稼げるのかは全然分からないが。
焦らなくてもどうせいつか必ず死ぬのだから、なんでも試してジタバタすればいいじゃないか。笑えるやり方でジタバタしようぜ。
というわけで、次回は「モリテツヤ、億万長者になる為に鳥の巣をつくるの巻」という内容で「スピらずにスピる」をお届けする。みんな、ぜってぇ読んでくれよな!
モリテツヤ(もり・てつや)
汽水空港店主。1986年北九州生まれ。インドネシアと千葉で過ごす。2011年に鳥取へ漂着。2015年から汽水空港という本屋を運営するほか、汽水空港ターミナル2と名付けた畑を「食える公園」として、訪れる人全てに実りを開放している。
この連載のバックナンバー
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「スピらずにスピる」序文
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第1回「神話≒ラグ」を編み直す
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第2回「絵を描くことと信仰」 特別インタビュー 阿部海太さん
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第3回「絵を描くことと信仰」 特別インタビュー 阿部海太さん(後編)
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連載「スピらずにスピる」5月休載のお知らせ
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連載「スピらずにスピる」8月休載のお知らせ
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第4回「カナルタ 螺旋状の夢」監督・太田光海さんに会いに行く(前編)
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第5回「カナルタ 螺旋状の夢」監督・太田光海さんに会いに行く(中編)
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第6回「カナルタ 螺旋状の夢」監督・太田光海さんに会いに行く(後編)
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第8回「あんたは紙一重で変なカルトにハマりそうだね」
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第7回「どのように金を稼ぐか/どのようにスピらずにスピるか」
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第9回「モリくんはクリスチャンにならへんの?」
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第10回「メタバースYAZAWA論」
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第11回「沼田和也牧師との出会い」(前編)
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第12回「沼田和也牧師との出会い」(後編)
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第13回「バースの儀式」