久しぶりの更新となります「スピらずにスピる」。実はスピってるんじゃないか!? と疑いを持たれてしまった汽水空港のモリさん。未知なる体験を通して見出した「スピらずにスピる」の真骨頂をご覧ください。
そこは海外のとある都市で、僕はバースと名乗る、いわゆるシャーマンと会うことになった。そのシャーマンの施すお茶を飲むことで、人は内的世界を旅することができるという。
浄化の作用があるというお香を焚いたあと、そのお茶を飲んだ。これから自分の身体にどんな変化が起こるのか、おそらく未知の体験をすることになるはずだが、なるべくリラックスするように努めた。ベッドに横になり、目を瞑ると、次第に暗闇の中に幾何学的な曼荼羅のような模様が浮かび、それが回転する様子が見える。やがて、身体の輪郭が曖昧になり始め、僕は手を閉じたり開いたりして身体の存在を確認していたが、とうとう身体とベッドの境目が分からなくなるような、身体が深く沈んでいくような感覚になった。見えるものも、曼荼羅から生物や森へと変化していく。その間、バースはずっと歌を歌っていた。
森の木々がその歌のリズムに合わせて踊り始める。気づけば木々は顔を持ち、枝は手のようになっている。その踊りの様子、顔の表情、全体的な雰囲気は、まるでさくらももこのコジコジとかちびまるこちゃんの世界のようだった。そしてその世界観は自分自身の内面を反映しているのだと何故か僕は確信している。自分自身の内面が映像となったものを見て、「おれってやっぱりたんなるアホだったんだ」と気付く。その事実に笑いをこらえることができなくなり、声を出して笑う。目を開けて確認してはいないが、その様子を見てバースも笑っているのが分かった。
しばらく踊っていた木々は間抜けな怪物の姿からやや変化し、少し不気味な様子を帯び始めた。僕はそれを見て若干恐怖を感じている。そして、この身体的状況が感情を増幅してしまうということをなんとなく感じている僕は、心の内側に発生している小さな恐怖の感情がこれ以上大きくならないように肩の力を抜こうと試みた。しかしそのわざとらしい僅かな力みが、見えている世界をまた変えてしまう。もはや木々の姿は本格的に恐ろしい怪物の姿へと変わってしまっている。心の状態が目に見える世界の姿として反映する。なるべく平穏さを取り戻そうとするが、感情がどんどん膨らんでいき止めることができない。
ふと、にんにくのにおいがした。これは自分の胃袋からくるにおいだ。磨き残している奥歯のあいだからも嫌なにおいを感じる。足の親指の爪に溜まっている汚れの嫌なにおいもする。そうして、自分の身体の汚れている部分、奥歯、胃腸、足の指先が緑色に発光しているのを感じると同時に吐き気を覚えた。その吐き気が強まっていく。自分の見ている世界が、目を開いているから見えているのか、目を閉じた状態で見えているのかも判別がつかなくなってきたが、緑色に発光しているのは見える。堪えきれないぐらい吐き気が強まった時、「ゾンビの女王」のような怪物が僕の胃の辺りに手をお椀のようにして突っ込んでいるのを見た。胃の辺りで緑色に光るものは汚れであり、蓄積された毒だ。それをゾンビの女王が掬い取ろうとしている。吐き気はどんどん増している。とうとう堪えきれなくなり、立ち上がってトイレへ向かった。思い切り吐き出した吐瀉物はやはり緑色に発光し、キラキラと光っていた。便器から立ち上がり、鏡で確認した僕の顔も薄く緑に染まっていた。うがいをしようと蛇口を捻った瞬間に、強烈な塩素のにおいが水道水から放たれた。その水を口に含むも、高濃度の消毒液のように感じ、再び吐き気がこみあげてきた。便器と洗面器を何度か往復したあと、ふらふらになりながら再びベッドへ身体を横たえた。吐き気に頭痛と腹痛も加わってきた。自分の身体から放たれるにおいがひどく汚く感じる。吐く息に含まれている毒が部屋中に充満してしまっている。
バースに「もっとお香を焚いてくれ」と頼み、お香の煙が部屋に広がると、確かに浄化されていると感じる。ゾンビの女王はその間もずっと僕の腹に手を突っ込んだり、マッサージをするような動作をしながら毒を出そうとしている。だがそれがしんどすぎる。再びトイレへ行き、上からも下からも毒を出す。胃は既に空っぽだが、吐き気がとまらず、喉に指をいれて吐こうとし続けていた。汗と涎、吐瀉物にまみれ、便器にもたれながら、「海に行きたい、ビーチに行きたい。」と涙が出そうになるぐらいの強い欲求を感じていた。部屋が人工的な物体に囲まれすぎていることにも息苦しさを感じる。自然のものが足りない。トイレに敷き詰められている砂利と観葉植物からエネルギーが放たれていることが分かる。特に植物から放たれているエネルギーが高山病の時に吸う酸素スプレーのように僕を助けてくれる。トイレとベッドを何度も往復しながら、既に空っぽの胃を絞り、何度も吐く。もう何も入っていないのに、吐き出すべき毒がまだ出しきれていない。
突如、苦しみながら、ふと、「吐いてもいいけど、吐かなくてもいい」ということが分かった。毒は、僕が心に抱いている「人に対する恐怖や憎しみ」を元につくられたものなのだということが何故だか分かってきた。恐怖、憎しみを手放せばいい。毒ももうこれ以上吐かなくていい。どういう理屈でそこに至ったのかは分からない。でも深く納得した。納得と同時に吐き気と腹痛が去った。全ての毒が流れ去り、軽やかになった身体を休ませようと再びベッドに横になる。見える映像は薄暗い森の中ではなく、宇宙のような広がりをもつ空間になった。恐怖は無い。宇宙空間に展開される、動く幾何学模様を眺めるうち、白っぽい光が広がる空間へと変化した。
そこからの記憶は曖昧になっているが、幾つか覚えていることがある。僕は自分自身を他人のように俯瞰して眺めていた。様々な後悔、過ち、憎しみを抱えているその自分を、温かく見守っていた。責めていない。それと同時に、どうしても許すことのできない人間のことも見ていた。その人のことも温かい気持ちで見ていた。その気持ちは、犬や赤ちゃんを見ている時のような気持ちだった。自分がどんな過ちを抱えて生きているかも関係なく、どんな事情で許せない感情を抱いているのかも関係がなかった。自分のことも、他人のことも、愛おしい気持ちに満たされながら眺めていた。そのようにして自分と他人を見ることもできるし、憎しみや後悔に満ちた気持ちで見ることもできる。これは選択の問題なのだということが分かった。「これが自分である」と思っている性格、癖、考え方、それらも全て、そうではないものを選ぶことができるということも分かった。そして、今選んでいるものを責める気持ちも無かった。自分を含めたあらゆる人を、犬や赤ちゃんのようにただただ愛おしく眺めていた。どんな選択を選んでもいいんだよと僕は目に映る自分を含めたあらゆる人々に対して、そんな眼差しで眺めていた。心が完全に安らいでいた。
やがて光る空間を上昇していくのを感じた。上へ上へ昇り、雲を抜けるような感覚の先で、自分であると同時にその他の存在全てであると感じる光を見た。その光は「愛」としか言いようのない温かなもので、空間全体、世界全体に満ちていた。愛としか言いようのない光に満たされながら、僕は「何を選んでもいいし、何でも選べる。」ということと「憎しみや恐怖を生み出す種を蒔いてはいけない」ということを伝えられた。そして、世界の美しさと、生きている喜びに満たされ、涙を流しながら現実世界へ帰ってきた。
再び目を開けると、外は晴れていて、葉っぱに透ける陽があまりにも美しく、僕は再び涙を流した。お茶を飲む数時間前と今とでは、世界の見え方があまりにも違った。目に映る全てのものが奇跡のようだ。そして、この奇跡の世界に今自分が存在しているということへの感謝の気持ちが溢れてとまらなかった。バースに深く御礼をし、部屋を出た。
という体験が数年前にあった。ここまで読んだ人は「いやお前、スピらずにスピるじゃなくて完全にスピってるじゃねえか」と思うかもしれない。そうかも。この時の体験以来、僕は自分の行動や物の見え方が変わった。今も世界に対して常に奇跡や感謝を感じているかというと、そんなことはなく、イライラすることや許せないという感情を抱いたりしている。でも、あの時に見えた愛としか呼びようのない光、そしてその光に包まれている時に伝わってきたメッセージには影響を受け続けている。メッセージは文字でもなく、音でもなく、言葉でもなかった。でも、今まで自分が見聞きしてきたどんな伝達手段よりも強く、説得力があった。「自分」というものを形成しているあらゆるもの、性格や物の見方や癖は自ら選択しているのだということ。つまり、手放すことができるのだということ。憎しみや恐怖は毒として心に蓄積するのだということ。そして毒は洗い流すことができるのだということ。そして、指針となるようなメッセージとして「毒の種を蒔くなかれ」というものは特に強く印象に残り、今もそれを意識して生活を続けている。見えていた映像は、自分の外側から内側へと深度を増す行程に沿って流れていたのだということも何故か僕は確信していて、どんな人のディープインサイドにも光があるのだという世界観の中で生き始めた。
そして、体験中に感じた嗅覚の異常な高まりは、普段どれだけ五感を閉ざしているのかを自覚させられたし、五感と同じように第六感というものも人間にはあるだろうということも、植物から放たれているエネルギーやお香の効果を実感することで納得がいった。その感覚が常に開かれている人もいるだろうと思うようになったし、五感と同じく、第六感というものも訓練によって研ぎ澄ましていくことができるだろうなとも思った。それと同時に、「これは危ういな」とも思った。それは、体験直後に「世界の別の姿を知った」と思う感覚を覚えたことだ。映画マトリックスでモーフィアスから渡された赤いカプセル、あれを飲んだかのような気持ちだった。一言で言い表すなら「真実に目覚めた」という感覚だった。その感覚は選民意識や優越感に結びつきやすい。人と土地の数だけある世界の物語を「たったひとつの真実の物語」に集約させてしまう。そういう嫌な予感も同時に感じた。
そこで、自分の中にひとつルールをつくることにした。それは「自分が体験したもので自分の物語を編んでいくこと」だ。実際に自分が体験していないこと、納得していないことで物語を肉付けしない。そして編んだ自分の物語を他人に強要しない。人の物語にも安易に乗っからない。確かな物として提示できない物語は、どのようにも表すことができてしまうし、確固とした唯一の物語として人に強要することはオウム真理教のような悲劇を招く。というようなことを意識しながら、その後の数年間を暮らしていた。その態度が「スピらずに(他人の物語に倒れ込まずに)スピる(自分の物語を編む)」だった。
そして数年が経ち、今この連載を書いている。自分の中だけで「スピらずにスピる」道を歩むということもできたが、このディープインサイドを探求する道は、社会に共有してみてもいいのではないかとだんだんと思うようになってきた。理由のひとつに、今の社会状況がある。
現代社会は言葉によって価値観を「アップデート」し続けている。それは古いルールを壊し、新たなルールをつくることに繋がっている。これまで黙認されてきた差別を解消するような、良い働きにも繋がっている。でも一方で、言葉によるアップデートは世界をたんなる「ルールを守るべき場所」にも変えてしまっているように僕は感じている。僕が言いたいのは、それが「息苦しいから嫌だ」とか「堅苦しいから嫌だ」ということではなく、「ただたんにルールとして規定されているからルールを守る人」を増やしているだけなのではないかということだ。SNSでよく見られるようになった「人が人を裁く」ということ、ネット空間に刻印された過去の行いによって、その人物像が確固たるものとして裁きの対象になっていること、そうした外的なプレッシャーによって行動や発言が決められているに過ぎないのではないか。そしてその状況に対する反動で、いわゆる「歯に衣着せぬ物言い」をする人物が人気を獲得してもいる。言葉のルールによって人を裁けば、それは自分にも返ってくる。言葉や論理という外的なルールだけで本当に世界はマシになるのだろうか。ということを考えた時、僕はディープインサイドにも目を向ける方法がこの社会にはあまり残されていないということに気付いた。
ディープインサイドで感じたメッセージは言葉や論理による説得ではなかった。裁くとか裁かれるとかいうプレッシャーも無かった。ただ僕は身体に染み入るように納得してしまった。今振り返ってそれを説明付けるとすれば、「愛としか呼べないような光が望んでいることをただ感じたのだ」と思う。そしてそのことによって、僕は自分の行動や発言が変化してきている。それは良い変化だったと思う。でも、それがなんだったのかを説明することはできないし、体験を他者に共有することもできない。ただ、言葉によって納得させられる以外にも、自分の内面を探求することによって、自分自身が善く変わることができる可能性があるということを発言してみてもいいのではないか。そんなふうに思い始めたのだった。そしてこの連載を始めた。ただし、スピらずにスピるの意味合いを「スピらずに(目に見えないものと一定の距離を保ちながら)スピる(でもそこを探求していきたい)」というような擬態をして。でも、核になっている自分の体験を伏せたままでは、書き進めることができないような気がしてきた。それで書いた。それともうひとつ、こうした内的世界の探求を重視することが、外的世界(社会)に対して行動することを軽視することに結びつきやすいということも感じてきた。瞑想することや祈ることも大事だが、署名一つで、声を一声あげるだけで、直接路上に立つということで、隣で苦しんでいる人が助かるかもしれない。社会がもう少しマシになるかもしれない。言葉や思想、ルールにもやはり重要な力がある。だから「スピらずにスピる」には「スピらずに(内的世界or外的世界だけに限定し自閉せず)スピる(どちらも同じ「世界」として全体を生きる)」というような意味も含ませていた。
そしてもうひとつ、「死にたい」と発する人を多く目にするようになってきたというのもある。「死にたい」とは、後天的に身に着けた考え方や癖、性格を手放したい≒ディープインサイドにある光に帰りたいという欲求のことなのではないかという仮説を提言してみてもいいのではないかということもある。「死にたい」の言葉に含まれている様々な意味を、内的世界の探求は教えてくれるかもしれない。そんなことも考えた。
連載を休んでいる間、僕は自生している野草や栽培しているハーブをお茶にして飲んだりしていた。植物の持つ科学的な効能に期待しているが、心の中では密かに「精霊」とか「スピリット」みたいなものも含ませている。気功の達人と出会い、気功教室にも行った。そこで初めて気を感じたりもした。月に一度ヨガにも行っている。当初胸の内に秘めていた、初期の「スピらずに(他人の物語に倒れ込まずに)スピる(自分の物語を編む)」を実践しているところだ。その生活を通じて、僕は鳥取で暮らし始めてから毎年苦しんでいた冬季鬱に陥ることなく、この冬初めて心も身体も元気に過ごすことができた。気とかエネルギーとかスピリットとかディープインサイドとか、目に見えないものを自分の身体を通じて感じてみようとすることを、真面目になり過ぎず、かといって変に茶化したりもせず、日常の中でやってみているところだ。
モリテツヤ(もり・てつや)
汽水空港店主。1986年北九州生まれ。インドネシアと千葉で過ごす。2011年に鳥取へ漂着。2015年から汽水空港という本屋を運営するほか、汽水空港ターミナル2と名付けた畑を「食える公園」として、訪れる人全てに実りを開放している。
この連載のバックナンバー
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「スピらずにスピる」序文
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第1回「神話≒ラグ」を編み直す
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第2回「絵を描くことと信仰」 特別インタビュー 阿部海太さん
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第3回「絵を描くことと信仰」 特別インタビュー 阿部海太さん(後編)
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連載「スピらずにスピる」5月休載のお知らせ
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連載「スピらずにスピる」8月休載のお知らせ
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第4回「カナルタ 螺旋状の夢」監督・太田光海さんに会いに行く(前編)
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第5回「カナルタ 螺旋状の夢」監督・太田光海さんに会いに行く(中編)
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第6回「カナルタ 螺旋状の夢」監督・太田光海さんに会いに行く(後編)
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第8回「あんたは紙一重で変なカルトにハマりそうだね」
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第7回「どのように金を稼ぐか/どのようにスピらずにスピるか」
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第9回「モリくんはクリスチャンにならへんの?」
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第10回「メタバースYAZAWA論」
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第11回「沼田和也牧師との出会い」(前編)
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第12回「沼田和也牧師との出会い」(後編)
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第13回「バースの儀式」