神話を読んでみる
序章で「ラグ≒信仰」と書いた。そのラグとは以下のようなものとして認識している。
“人は一枚のラグの上に生まれる。そのラグは様々な糸で織られている。一本一本のその糸は、親の価値観という糸、生まれた土地の伝統や風習という糸、周囲の人々が信じる世界観という糸、様々な糸によって織られたラグだ。人はそのラグの上に生まれ落ち、どのように織られたものなのかを生後間もなく読み込み始める。そして読み込まれ、形成される価値観を僕は「信仰」と捉えている。そして人は、その信仰に自身の身体と心を沿わせるようにして生きる。”
この「ラグ」の中で、最も古いものが恐らく世界各地に残されている「神話」だ。人は生まれ落ちたこの世界で、成長と共に自と他を区別し、目に映るものひとつひとつに名前をつけ、分類していく。その過程で「何故自分は今生きているのか」「世界とは何だろうか」という問いを抱く。この問いが人に物語をつくらせるのだろう。その最も古いものが神話であり、その中には「世界のはじまり」が記されている。天と地、光と闇、人と動物、男と女。違いを認識し分類できるものには名を与え、世界の理解を試みているように思える。そして当然のように「神」という存在が登場する。理解できるものと不可知のものとが渾然一体に絡まり合いながらも、この世界がどのように成り立ったのかを想像力と実感を基に練り上げられもの、それが神話だと僕は理解している。
ネイティブアメリカン、ポタワトミ族出身の植物学者ロビン・ウォール・キマラーが書いた『植物と叡智の守り人』という本には、親族に伝えられてきた神話と風習を土台としつつ、現代の植物学者として近代教育も受けた人間という、両方の眼差しを持つ人として土地と人々とを結び直そうとする哲学が記されている。この本の中で繰り返し語られるのは、全てのネイティブアメリカンの部族に共有されているという「スカイウーマン」の神話だ。物語はスカイワールド(空)から、手に何かをしっかりと握りしめている1人の女性がくるくると回転しながら落ちていく様子からはじまる。まず雁たちがその墜落を止める為、一斉に水面から飛び立つ。暖かい羽に包まれ、優しく自分を下へと運ぶ存在を感じるスカイウーマン。やがて飛び続けることに限界を感じ始めた雁は仲間を呼び集めてどうするかを決めることにする。水鳥、カワウソ、白鳥、ビーバー、あらゆる種類の魚たち、そして大きな亀がやってきた。亀はスカイウーマンが休める場所として背中を差し出す。他の動物たちは陸地をつくる必要があると知っていて、水中深くから泥を掴みスカイウーマンに手渡す。動物たちから受け取った一掴みの泥を亀の甲羅に塗り広げ、感謝の歌と踊りを舞い踊ると同時に土はどんどんと広がって、やがて大きな陸地ができる。この陸地こそが「タートルアイランド」と呼ばれる、ネイティブアメリカンたちが暮らしている世界だ。彼女の握りしめた手の中にはスカイワールドに生えていた「生命の木」に成る果実や種子のついた枝葉があった。新たにできた陸地にその種を蒔き、茶色かった世界が緑色になるまで丁寧に面倒を見たという。このような神話がネイティブアメリカンに伝えられている。あらゆる動物たちからの贈与として、人間が生きる世界ははじまったのだ。その神話がベースに共有されているということが、自分たちの生き方や暮らし方として反映されてきたのだとロビン・ウォール・キマラーは語る。それは「亀の背中の世界を贈られたお返しに、あなたは何を与えるの?」という自己と世界との関係への問いとして心に宿る。
一方、西欧で広く普及している神話では、知恵の実を食べた為にエデンの園からアダムとイブが追放されてしまうという物語が伝えられている。アダムには「食べるためには汗を流して働かねばならない」という罪が、そしてイブには「子どもを産むには苦しまなくてはならない」という罪が課せられた。この地上で生きるということを「罪」として捉えるのか、それともネイティブアメリカンのように、生きることを「贈与」として捉えるのか。信仰の世界に生きる人々にとって、神話がもたらす生き方への影響は小さくなかっただろう。
では、現代を生きるモリテツヤにはどのような神話からの影響があるのだろうか。僕はクリスチャンではないから、アダムとイブの物語を自分と連なる神話ではなく、たんなるひとつの物語として読む。スカイウーマンの物語とそこから派生する世界観、知恵に対しては、憧れはあるが自分のものではないという距離を感じる。日本に生まれ、望むと望まざるとにかかわらず日本人として生きてきた僕のラグに、果たして「日本神話」の糸は編み込まれているのだろうか。まずはそれを確認してみたい。
日本の神話
日本には『古事記』と『日本書紀』が神話として伝えられている。どちらも日本という国がどのように発生したのかが物語として記録され、怒涛のように無数の神々の名称と出来事が連なる。理解できる論理で構成されているとは僕には思えず、また、様々な出来事に潜んでいるのであろう意味を読み解くということも自分には難しかったが、感じたことは神々の人間臭さである。神々は簡単に嫉妬し、怒り、破壊し、殺す。性に関する事柄もそこには濃密に描かれている。やがて具体的な地名として「出雲」など鳥取に暮らす自分にとっては身近な場所へと繋がっていく。この連なりから少しずつ掴めてきたのは、神話というものは様々な実在した人々が生きて体験してきた人生の記録が切り貼りされた集合体なのだろうという実感だ。神々が抱く感情や理不尽な行動は、この島で暮らしてきた人々の歴史そのものであるはずだ。自然災害の驚異、人間同士が共に生きることの困難、それらによって引き起こされて生まれた感情、その全てが物語として記録されたものが神話なのだろう。『古事記』も『日本書紀』も、当時「日本」という国を成立させる為の物語として利用する為に編集されたものだとはいえ、それは無数の人々の体験と感情から構成されている。複雑で、読み解くことが困難なのは、人間そのものを現しているからではないか?
ここまでが僕が感じることのできた日本神話だ。だが、仮に日本神話が人間の複雑さを現した物語だとして、そこから現代を生きる自分を導くなんらかの教えは潜んでいないのだろうか。僕がラグとしての神話に期待するのはその点だ。スカイウーマンの物語のように、何かグッとくる世界観を獲得することはできないだろうか。こんな時、やはり手助けになるのは本である。
読んだのは『神話と日本人の心』(河合隼雄著)という本だ。心理学者である河合隼雄は、人間の心と物語の関係についてよく知っている賢者だ。期待通り、序章で現代を生きる人々と太古からの神話とを結びつけて語ってくれていた。
“-神話の意味について、哲学者の中村雄二郎は、「科学の知」に対する「神話の知」の必要性として的確に論じている。「科学の知」の有用性を現代人はよく知っている。それによって、便利で快適な生活を享受している。しかし、われわれは科学の知によって、この世のこと、自分のことすべてを理解できるわけではない。「いったい私とは何か。私はどこから来てどこへ行くのか」というような根源的な問いに対して科学は答えてくれるものではない。”
さらに
“「神話の知の基礎にあるのは、私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいという根源的な欲求」であると指摘している。科学の知のみに頼るとき、人間は周囲から切り離され、まったくの孤独に陥るのである。科学の「切り離す」力は実に強い。”
と、中村雄二郎の言葉を引用しつつ記述している。この連載「スピらずにスピる」において、まさに欲望していることはこの点である。現代の日本に生まれたモリテツヤが(きっと僕だけでなく現代を生きる多くの人々が)陥っているこの「孤独」の状態から、世界と再び確かな実感を持って接続する為の知恵と技術の獲得。それが目的だ。どのような民族も「死」についての神話をもっているという。神話という物語は、訳も分からず生まれて死んでいく僕らに、虚無ではなく、「生」と「死」の連なりをもたらす。とはいえ、この著書の中で河合隼雄は神話の力によって「自爆テロ」に命を捧げる人々の危険性も指摘している。だからこそ「スピらずにスピる」ことが重要だと僕は考える。
神話からの影響
さて、この本に書かれている膨大な記録は、日本の神話だけでなく世界各地の神話を参照、比較し、そこに類似する点を多く見出していた。それは「国」を越えた、人類としての共通する心の動きでもあるのだろうと僕は理解した。どこに暮らす人々も似たようなシチュエーションに遭遇し、同じような悩みを抱えて生きたのだろう。そして発生する問題をどのように乗り越えようとしてきたかという、試行錯誤の痕跡を神話という物語の内に見いだせることを示してくれた。それは「光と闇」「善と悪」「男と女」など、人がついつい行なってしまう二項の分類がもたらす衝突や争い、つまり「統一」を目指す過程で発生する暴力をどのように乗り越えようとしてきたかという知恵の記録だ。日本神話の主神であるアマテラスという女神の内にも、武装して戦うという面もあれば、やさしく植物を育て衣服を紡ぐという面もある。ひとつの存在の内に含まれる両面性を描き、対立・矛盾する二項があれば、その間をつなぐ第三項の存在を神話の中に組み込んでいる。
“何らかの原理によって統一するとか、対立する原理をどのように統合してゆくかという考えによらず、原理的対立が生じる前に、微妙なバランスを保つように、異種のものの混在や結びつきを図るのである。そこにおいて最も大切なのは調和の力なのである。”
と、河合隼雄は日本神話の特徴を挙げる。このことを読んだ時、自分のラグには既に日本神話の糸が含まれていたのかもしれないと感じた。日常生活を送るうえで、神話を意識して暮らすことはないが、日本という島で生きたあらゆる人々の歴史の果てが現代社会である。個人としてのラグには、生まれ落ちた土地の文化が否応なく編み込まれている。無意識の内に編み込まれたその糸が今の自分を形成しているのかもしれない。なにせ僕の店の名は「汽水空港」である。汽水という、海水と淡水が混じり合うその曖昧な領域の「あいだ」に何か大切な物事が潜んでいるのではないかという感覚。「スピらずにスピる」という矛盾した意味を混ぜ合わせようとする欲望。これらは極めて「日本神話的」なのかもしれない。
しかし、そう感じると同時に、こうした「第三項的アプローチ」を選択することを好む自分の傾向は、自分の個人史によって獲得したものであるような気もする。物事を分類し、人やシステムと対立する。その過程で味わうことになる様々な感情と葛藤は、人が生きていくうえで誰しもが経験することである。僕は35年間生きてきて、政治的な意見の違いによって人と喧嘩し過ぎた。様々な場所を転々と移り住み、その度にその土地のラグに戸惑いを覚えた。生きるとは経験することである。政治的意見やセンスの違いで人と人とが衝突し合う時というのは、多面的である人間同士の相反する面と面が向かい合ってしまった瞬間の出来事であって、現れて見えるひとつの面だけがその人の全てではないし、僕の全てではない。そのように捉えることができなければ、住み慣れない田舎の地で生きることや、移動することのできない本屋というスペースを運営していくことが極めて難しくなる。個人的な人生経験の中に、神話に見る第三項的アプローチの獲得を求める要素は既にあるのだ。
1人1人の人間が生きてきた個人的な経験の集大成が神話なのだとすれば、神話に描かれている出来事は「やがて自分も経験することになるかもしれない未来の出来事」として、そこに潜んでいる意味を読むことができるのかもしれない。日本神話だけでなく、神話は世界各地にある。それは別の土地に生まれ落ちたかもしれない自分が読むことのできる、別の未来の物語だ。スカイウーマンの神話を自分の文化にすることはできない。だが、個人として物語と出会い、そこから知恵を授かることはできる。過去を生きた人々からの贈与としての物語、それが神話なのだと仮定すれば、ロビン・ウォール・キマラーのように生まれ落ちた世界そのものを神秘に満ちた贈り物として感じることができるかもしれない。
迷子の天才
今、「生きていることに感謝する。」という言葉を堂々と言うのはなかなか難しい。その言葉を発する時、今起きている戦争や病による影響、日々起こり続ける差別、様々な制度の不足、経済システムがもたらす破壊や搾取、あらゆる困難な境遇に立たされている人々の状況を無視しているかのような気持ちになるからだ。だから、今生きているこの世を地獄かのように捉えること、他者の怒りに同調すること、生きるということを「罪」や「試練」と捉えることに染まってしまいがちだ。だが心の深い部分では、本当は世界をそのように捉えたがってはいないのを僕は感じる。僕が今切実に必要としているのは、あらゆる悲しい出来事や状況を直視したうえで、それでも尚「生きていることに感謝する。」という言葉を恥ずかしげもなく堂々と言える為の世界に対する認識の仕方だ。それが自分にとって「スピらずにスピる」ということであり、世界を地獄だと捉えそうになる自分への抵抗≒創造行為でもある。ひとつの世界観、価値観を共有して生きられる場所や時代に僕は生まれていない。しかし神話から読み解き、時代を越えて全ての人々と共有することのできる問いはある。それは「いったい私とは何か。私はどこから来てどこへ行くのか」という根源的な問いである。予め持って生まれた性質を才能とするならば、これは全人類に等しく与えられた贈り物(天才)だ。あらゆる人々が迷子の天才なのである。そして神話は、迷子たちが迷いながらも書き記した経験と想像の記録なのである。
スカイウーマンの物語を「聖なる教え」とするロビン・ウォール・キマラーは“聖なる教えとしての神話は戒律でもなければ規則でもない。-生きている者たちは、自分で地図をつくらなくてはならない。「聖なる教え」にどのように従うかは私たち1人ひとりみな違うし、時代によっても異なる。”
と語り、河合隼雄は
“現代においては、各人は自分にふさわしい個人神話を見出す努力をしなくてはならない。と言っても、「神話」を見出してそれに従って生きる、などというのではなく、生きることそのものが神話の探究であり、神話を見出そうとすることが生きることにつながると言うべきであろう。”と語る。
賢者たちは、簡単に出来合いのラグを僕に提供してはくれない。しかし、叡智を備えた糸の存在を示してくれる。僕はこれからも迷いながら、自分自身のラグを編み続けていく。
連載第一回のあとがき
今回の記事は、次回に登場する絵描き/絵本作家の阿部海太さんとの会話の中で連想されたことからも多くの影響を受けています。というのも、元々今回の記事は「阿部海太さんと神話について語る」という企画を立てていたからです。海太さんは『はじまりが見える世界の神話』という、世界各地の様々な神話が記された本の挿絵を担当しています。当日の会話の中では神話にも触れましたが、事前にメールでやりとりする中で「絵を描くということと信仰について」というテーマで語りましょうということになりました。なったのですが、僕の中で全てのテーマを含んだ記事が書けないだろうかという甘い目論見があり、今回それを試みたのですが、やはり一つの記事の中で全てを書くのは難しく、「神話」にテーマを絞った記事になりました。ということで、つまり言いたいのは今回の記事には海太さんとの会話からの影響があるということと、次回の連載「絵を描くことと信仰(仮)」を楽しみにお待ち下さいということです!(海太さん、ありがとー!)
次回へ続く
この期間に読んだ「スピらずにスピる」ことに影響を与えたブックリスト
・『気流の鳴る音』真木悠介著 (筑摩書房)
・『はじめてのスピノザ』國分功一郎著 (講談社)
・『神に追われて 沖縄の憑依民俗学』谷川健一著 (河出文庫)
・『植物と叡智の守り人』ロビン・ウォール・キマラー著 (築地書館)
・『神話と日本人の心』河合隼雄著 (岩波書店)
・『人類学とは何か』ティム・インゴルド著 (亜紀書房)
・『私たちのなかの自然 ユング派心理療法から見た心の人類史』猪股剛編 (左右社)
モリテツヤ(もり・てつや)
汽水空港店主。1986年北九州生まれ。インドネシアと千葉で過ごす。2011年に鳥取へ漂着。2015年から汽水空港という本屋を運営するほか、汽水空港ターミナル2と名付けた畑を「食える公園」として、訪れる人全てに実りを開放している。
この連載のバックナンバー
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「スピらずにスピる」序文
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第1回「神話≒ラグ」を編み直す
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第2回「絵を描くことと信仰」 特別インタビュー 阿部海太さん
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第3回「絵を描くことと信仰」 特別インタビュー 阿部海太さん(後編)
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連載「スピらずにスピる」5月休載のお知らせ
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連載「スピらずにスピる」8月休載のお知らせ
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第4回「カナルタ 螺旋状の夢」監督・太田光海さんに会いに行く(前編)
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第5回「カナルタ 螺旋状の夢」監督・太田光海さんに会いに行く(中編)
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第6回「カナルタ 螺旋状の夢」監督・太田光海さんに会いに行く(後編)
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第8回「あんたは紙一重で変なカルトにハマりそうだね」
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第7回「どのように金を稼ぐか/どのようにスピらずにスピるか」
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第9回「モリくんはクリスチャンにならへんの?」
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第10回「メタバースYAZAWA論」
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第11回「沼田和也牧師との出会い」(前編)
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第12回「沼田和也牧師との出会い」(後編)
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第13回「バースの儀式」