前回、「ドイツ、メキシコで絵を描くこと」「根なし草が本屋をやること」などさまざまな話題で盛り上がった二人。今回はその後編です。二人の「スピらずにスピる」談義はどこに向かうのか!?
今回も阿部海太さんの絵と共にお楽しみください。
祈りの作法を忘れている
モリテツヤ(以下:モ)
阿部海太(以下:ア)
ア:多分これは僕が個人的にそうっていうよりかは時代がやっぱり変わってきてる気はするよ。モリくんが早かったんだと思うちょっと。なんだろう、一方で単純に科学ではもうどうにもならないんじゃないかっていう空気があるでしょ、今。哲学とか思想の本が売れてるっていうからね。みんな、違うもの、次の何か救いを求めてるんだと思う。きっと。やっぱ芸術もなんか人の声を聞くとか、なんだろう少しカタチが変わってきてるようなふうには見えるっちゃ見える。でも僕も現代美術からちょっと離れた人間だから、あんまりその中で何かを考えたり話しを聞いたわけじゃないからそんなに偉そうなこと言えないんだけど。前ね、大阪で入管の政策に反対する為のスタンディングデモに参加したことがあって。ヨドバシカメラの前でやるの。巨大な電光掲示板みたいのがあるその前でやってるんだけど、みんな手書きのプラカードとか持ったりとかして。本当に寂しい人数しかいなくて、悲しい気持ちになりながら立つんだけど、その前にすごくその洗練されたPVみたいな音楽とか広告とかが電光掲示板から流れてるわけ。いやあこれ、表現って一体何のためにあるんだろうなっていうことを凄く考えちゃったんだよね。なんか自分のやってることって、表現っていろんなものがあるけど、洗練していくことっていうのをやっていったら、技術的なことを高めたりしていったらそういうふうに綺麗なPVみたいのができるわけだけど、なんかそれって表現の本当に求めてるところではないよなっていうか。そんなことを立ちながらずっと考えていて。でももう自分にはあんまりできることがないというか、なんかその、混乱してるんだけどね。社会運動そのものの可能性はまだまだあるとは思うんだけど、それとは別に表現者として、ただプラカードを描くことだけしかできないし、結局何ひとつ変えられないのではないかと思って。それでこれはもう、祈るしかないのかもしれないってことを、立ちながら考えて。で、ジュンク堂でね、その帰りに祈りについての本を探して買って帰ったんだけど。
モ:祈ることとは何かって、もう分からないじゃないですか。現代の日本に生まれちゃったら。「祈ってます」とか言ったら「は? 大丈夫?」みたいになるじゃないですか。でも祈るってことは人類ずっとやってきたはずなのに。
ア:祈るやり方が分からないよね。
モ:やり方が分からないし、一度失われてしまっているじゃないですか。祈りの作法みたいなものが。だから自分で考えて自分でやるのもいいんだろうけど、なんかそれは、ただのコスプレみたいなことになっちゃいそうだということもあるし。でも一方で、身体に聞けば、一人ひとり持って生まれたこの身体は祈りのやり方を知ってるだろうという気もするんですよね。
ア:なんかこう、難しいのが、うーん。そっか祈り方が分からないっていうのもあるよね。でもなんか僕は絵を描いていてラッキーだったなって思うのは、なんか別に、絵でいいやって思えるというか、絵でそれをできないかっていうふうにやれるっていうのが、ちょっと多分ラッキーなんだろうなって思う。なにもない状態で、どうやって祈ろうってなった時に、もう八方塞がりじゃない? まあでも、そこからはじまってもいいのかもしれないけどね。じゃあ、とりあえず文章書いてみようかとか、とりあえずなんかパフォーマンスとして祈ってみようかとか。なんかそこから始まることもあるのかもしれないけど。なんかやっぱり自分なりの手がかりみたいなことっていうのがきっと必要だよね。で、僕はやっぱり絵で物事を考えるとか、絵の中で何か感じるっていうことをずっとやってきたから、結局僕が祈ろうと思ったら絵を描くことになってくると思う。表現って絵もそうだし音楽とかもみんなそうだけど、やっぱ祈りに近いものってやっぱあると思う。絵は特に自分一人でやるっていうのが一つあるなってさっきも言ったけど、なんかその画面と向き合ってる時間っていうのはやっぱり一人だから、そこの中で何かそういう祈りに近い感覚みたいのを既に僕は知っているかもしれないなとも思っている。でも気をつけなきゃいけないのが、やっぱ自分のやっている行為をあまりにも崇高に考えすぎちゃうと、とても危険じゃないですか。それはどういう塩梅にしたらいいのかなっていうのはちょっと今考えてる。やっぱり凄く参考になるのが「生きがいについて」(神谷美恵子著)で、あとこれ「来者の群像 大江満雄とハンセン病療養所の詩人たち」(木村哲也著)はハンセン病の人たちの詩を集めた本なんだけど。あのー、ネットフリックスで、「マイ・ラブ」(戸田ひかる監督)というドキュメントがあって、その監督に誘われて岡山県の大島に愛生園っていう療養所があるんだけどそこに行ったりもしたんだよね。で、この人達っていうのはかなりキリスト教の信仰が盛んなんだよね。その療養所自体が。で、その人達が詩を書いたりするわけ。で、また音楽をやったりするんだけども、やっぱりその表現って、本当にそれがないと死んでしまうっていうところから、というかそれがないと人間としていられないっていうか、そういうところからやっぱり始まってるから、なんかやっぱすごいんだよね表現の迫力っていうか必然性みたいなところからくるものが。僕はなんだかんだいって未だに迷子だと思ってたから。その、芸術をやる人間として迷子っていうのはどうしたって心許ないんだよね。アイデンティティだよね。それがポジティブだったりネガティブだったり、それはどっちでもいいんだけど、なにかその自分のアイデンティティから作品をつくれるかつくれないかっていうのは、かなり作品の魅力っていうのに大きく関わってくる。だからすごく大変な環境の中で育ってきた人や虐げられてきた人の持つ表現っていうのはやっぱり恵まれた僕みたいな中流の家庭で何不自由なく普通に大学行ってみたいな人たちの表現に比べたら、やっぱり比べ物にならない。戦争を経験した人っていうのもまた表現が凄くて。これは人が言ったことだけど「戦争を経験した人っていうのは、もう3回生きてるようなものだって言ってて。それは戦前、戦中、戦後、3回を生きているっていう、それぐらい凄いドラスティックな時代の変化がそこにはあったんだろう」って言ってて。やっぱ戦争に関わった絵描きって戦争で一気に表現が変わったりするんだよね。そういうのを見てると、生死にかかわるそういう淡いっていうか、危ない場所から生まれた表現っていうのはすごく激烈で。でもなんかそれをただ凄いなって思って、まあ読むんだけど、それプラス何か人間が表現したいっていう欲求の秘密みたいなものが転がっているような気がする。それは多分神話も一緒で、人間がそんなに豊かというか安全に生きれなかった時代のものでしょ。自然の怖さだとか、自分が分からないものに対する畏怖とかさ、そこに神を据えたりとかしていて、なんとか理解しようと苦心していた、まあ賜だと思うんだけど、そういう意味でやっぱり神話もそうだし、こういうハンセン病の中で作品をつくってきた人たちの表現ってところに僕は興味があるんだよね。それはやっぱり宗教だったり神話だったりそういうものが関わっていて、見えないものに対してどう応答するかっていうことをやっぱりやっていてそういうものを、もうちょっと自分なりに咀嚼できないかなって思うんだけど。
違いすぎる世界観の中でのコミュニケーション
モ:この間、東京行った時にハーポ部長っていう知り合いの人がいて、その人が「スピらずにスピる」に興味持ってくれていていろいろ話しをしてて、その中で「詩は霊性、言葉は呪術なのかもね」って言ってきて、そうかもなとすごい思ったんですよね。物事の霊性を掬いあげることが詩になるんだろうっていうのはその時に思って。だからなんか「生きがいについて」とか読むと、もう本当にギリギリで生きている人たちだから、霊性を掴まざるを得ないみたいな。その時に人は詩をつくったり、まあだからそれが芸術になっていくんだろうみたいな。
ア:目に見えたり、その場で触れるものの奥にこそ答えがあるんだよね。この療養所にいる人たちにとっては。霊性の中に救いがあるから、やっぱりそういうふうになっていくんだろうなって思うんだよね。
モ:別に自分はそんな大きな不幸みたいな出来事もなく生きてこれたけど、でもなんかそれを求めていきたいみたいな気持ちはすごいあるわけですよね。なんでかっていうと、ひとつはあまりにも人と人同士で、なんだろう、世界観が違いすぎる。例えばいろんなデモとかあるけど、デモをする人にとって切実な要求があって、でもそれを一方で常に攻撃する側の人もいるわけですよね。原発のこともそうだけど。憲法とか。常に今いろんな社会問題が湧き上がって。で、そこで原発事故があった時とか、さすがにこれは満場一致で「原発ナシ」でいくだろうっていう結論が出たと思ったけど、実際にはそうならなかった。この凄まじい価値観とか世界観の違いはなんだろう。これはもう論理とかじゃないんじゃないか。言葉でお互いに説明を試みるだけではこの衝突を乗り越えられないなってその時すごい思って。言葉で相手を納得させるという手がなかったとしたら、何を使ってコミュニケーションを図ればいいのか、何を共通言語にしたらいいのかみたいなことはすごい考え始めて。なんかイヌイットの伝承に「昔、人間も動物も同じ言葉を話していた」みたいのがあるじゃないですか。その同じ言葉で話していて通じ合えたんだけど、でもいつも説明する為の言葉は何も伝えることはできないんだみたいな。正確な文言忘れたんですけど、そういう逸話みたいのがあって、そうなんだろうなって思うんですよね。その説明とか説得の為の言葉ではない共通言語みたいなものを、世界観をどうやってつくっていくか。で、僕は原発ナシでいきたい人で、その理由を言葉にするとちょっとやっぱり「善き側」みたいになっちゃうわけですよ。自然を敬い、水を汚さず生きていける世界のほうがいいじゃないかって。でも本当はなんか、善なる側みたいなふうに立ちたいわけじゃなくて、やっぱそう感じるからそうなってるだけなんだけど、でも本当はみんなそうでしょ?って思うんですよ。なんかいろんなロジックに自分が上書きされて、電気が無ければ生きていけないとか経済がとか言ってるけど、本当は電気より経済より大事なもの求めてるでしょ?って確認したいんですよ。でもなんか、それは「自分は分かっている側」みたいなポジションに立ちたくもないっていうか。正しい側にいる自分みたいなのは居心地悪いんですよ。だから手探りで「ラグ」を黙々と編んでいきたいっていう。どのような糸を獲得してラグを編んでいけるのか。その為のヒントを、今日みたいに絵を描く人と話しをして得ていくみたいな。
ア:なんか不思議なもんだなあって思ってて、なんかこう、動物とか風景を描いたりしても、なんだろう。うーん、なんにもならないと言ったらヘンだけど、うーん。難しいな。ちょっとうまく言えないな。うーん。なんか描いてもそれが本当の世界かどうかは分からないって言い方はヘンだな。でもね、なんか絵の世界のほうが本当っぽいっていう時もあるんだよね。うーん。なんかモノを写したりするだとか、自分の感覚で絵を描いたりするんだけど、なんか不思議なのは、そのモノをそっくり描けばそれが本物なのかっていうと、そうではないかもしれないっていうのが絵のおもしろさだとは思う。例えばすごくリアルにスケッチして、写真みたいな絵があるけど、みんなそれ見てすごいなあって思うかもしれないけど、でも絵ってこれだけじゃないよねということをみんな知ってると思うんだよね。で、その「これだけじゃないよね」っていうところがやっぱり「スピってる」んじゃないかなあと思ってて。それは知ってるんだよね、みんなね。だから、結構そういう入り口にはなり得るよね。子どもの絵っていいよねっていうのも、なんだろう。子どもだからいいっていうふうにもちろん前提として言えちゃうんだけど、でもなんか子どもだからっていうのを剥いでも、なんかいいよねっていうふうに言えてしまうんじゃないかなっていうのを、絵のすごいところだなと思ってて。例えば現代美術とかで絵について話そうとすると、さっき言ったようにこういう絵画の歴史があり、現在こういう社会状況があり、こういうコンセプトでこういう絵になってますっていうことを、ある程度説明できないといけないんだよね。それはやっぱりその西洋の美術っていうのはそういう歴史の中で育まれてきたものなので。僕はそこに対してあんまりおもしろさを感じれなかった人間で、どっちかっていうとやっぱインディヘナの人たちがつくってたパターンだったり素朴なスケッチとかが、なんかやっぱこういうのが良いなって思ったので、言ってしまえば素朴な絵が描けたらそれでいいっていうふうに思ったんだよね。そういう意味で、絵本って結構そういうフィールドがあって、要するに文脈っていうんだけど、文脈に左右されずに自由に絵が描ける場所がたまたま絵本の中に僕は見つけられたから、美術の世界から絵本の世界で絵を描くようになったんだけど、なんだろうね。絵本もそういう意味では結構可能性を持っていると思っていて、メディアとして。子どもにも分かんなきゃいけない表現っていうことを、本気で大人が考えていくと、僕の場合はちょっとそういうスピリチュアルなほうに自然といったんだよね。要するに、説明をしちゃダメなんだよきっと。絵本の中で。理屈では伝わらないんだから子どもには。で、説明をしないでも、なにかこう感覚としてその中に入ってトリップする中で味わえるもの、感じたり考えたりできるものっていうのを表現するには、絵本ってメディアはすごい向いていると思っていて。なんか詩に近いとも思って。説明しないことと、短いってことと、何度も繰り返し読めたりできるっていうこと。あと一人で味わえるっていうこと。やっぱそういうところで僕は自分の考えているいろんなことは絵本として表現しやすいっていうか。絵本もね、結構やっぱりページがあって、もちろん物語があって構成があって展開していく訳だけど、僕が本当はなんかイメージしてるものはね、このページとページのあいだにあるんだよね。(ページの側面を指しながら)」
モ:はー!!
ア:やっぱり絵って、ページで途切れるからさ。もちろんどんどん展開していくわけなんだけど、本当に表現したいのはこのページとページの隙間にみんな入ってる。要するにこの全部があって、なんかその隙間が見えてくるっていうか。言ってる意味分かるかな。なんかこう、2ページじゃ隙間は見えないわけ。ちゃんと本というカタチになって、なったことで初めてこのページとページの間に何かがこうあるように感じれるんじゃないかなって僕は思っているんだよね。
モ:だからそれはアニメーションにしたいとかってことではないってことですよね。
ア:そう、アニメーションにしちゃったらもうそこは見えちゃうじゃない? 見えないことが大切で、やっぱり神の何がおもしろいかって、見えないのがおもしろいと思う。見える人はいるかもしれないけどね。見たって人もいるかもしれないけど、やっぱり見えないことっていうのがすごく大切で、絵を描く時も僕はやっぱ見えないものっていうのは描く意味がある。意味があるっていうとヘンだな。見えないものを描きたくなるよね。そこを如何に掴むかっていうことだと思う。で、見えないものを描くとか言うとさ、別にそんなにヘンな感じしないでしょ? でも聞きようによっては結構スピってるよね。だからやっぱ絵の周りってさ、割とそれが通じちゃう世界なのかもしれないよね。別にスピってなくてもみんなスピリチュアルっていうか。絵の近くでは。
なんかね、今僕ちょうどこの本読んでて。「私にとって神とは」(遠藤周作著)、読んだことあります? 遠藤周作はキリスト教の作家でね。この人のエッセイなんだけど、神についての。「宗教の時間」っていうラジオがあって、それで若松英輔さんが紹介しててこの本のことを。でね、すごくおもしろかったのが、日本人って信仰っていうものに対して100%信じ切るみたいなふうに勘違いしている人がいるっていうふうに遠藤周作が言ってるんだよね。そうじゃなくて遠藤周作自身は、90%の疑いと10%の希望が信仰だっていうふうに言ってるの。
モ:あー! スピらずにスピってるー! はは!
ア:そう。僕、この言葉すごいしっくりくるんだよね。それを若松さんが言ってて、この本にはその言葉は出てこなかったけど、「90%の疑いと10%の希望は」っていうのは書いてるんだけど、10%のほうが大きいんじゃないかみたいなことを若松さんは言っていて。10%のほうが少ないんだけど、10%のほうが大きいっていうことを言うんだよね。そういう感じもすごい分かるんだよね。だから、疑って全然いいんだと思う。で、疑うべきなんだと思う。疑いながらもどっかでなにかがこう「それ」が働いているっていう感覚を大切にすれば、十分というか。僕は自分の絵についてあんまりまだ信頼しきれてないのね。これで祈りだって言えない。全然。自分の中では。言えないと思っている。それが90%。でも10%で、祈りになり得るかもしれないっていう希望があるわけ。そういう意味で、やっぱ本当に僕は、自分にとって絵というのは信仰だなって思ってる。で、もう一個おもしろいのが、遠藤周作はキリスト教を如何にこう、日本人の身に合ったものにするかっていうことが大切なんだってことを言うんだよね。要するにその西洋の考えのままをそのまま着込むんじゃなくて、和服に仕立てるみたいな言い方をするんだけど。だから遠藤周作がいうキリスト、イエスの像っていうのがかなりその原理的なキリスト教の信仰を持っている人からしたら「それは違う」とか言われるんだって。でも、そうじゃなくて自分にとっては、自分にとってのイエスが居るんだっていうふうに言ってて。それは自分の経験と、自分の考えとか感覚の中でイエスっていうのを捉えてるから、そういう意味ではいろんな人にとってのそれぞれのイエスがいて、それらが集まったのが本当のイエスなんじゃないかってことを言うんだよね。なんか絵もそうで、僕は今、絵、絵っていっぱい言っちゃってるけど、色んな絵があって、色んな絵との関係っていうのがその人にとってあるわけ。描き手にも、見る人にとっても。だから別にどれがどうってわけじゃないんだけど、なんかこう、自分にとっての絵っていうのがやっぱあるんだけども、なんか、なんていうのかな。もっと大きい絵っていうのもちょっと感じてるわけ。「自分にとっての絵」と「もっと大きい絵」っていうのもちょっと感じてるわけ。自分にとっての絵と、もっと大きな絵。それはもしかしたら「絵」って言い方が合わないかも。表現とかになっちゃうかもしんないけど、なんかそこの、自分の個人的な感覚みたいなものを最終的にはやっぱ大切にするしかなくて、でもその先にはもっと大きな絵っていうものがやっぱりあるんだろうなっていう。やっぱそれは捉えきれないというか。神と一緒で。だって本当にラスコーの壁画とか描いた人がどういう気持で描いたのかは本当は分かんないんだもん。「超おもしれえ!牛かっけー!」とか言って描いてたかもしれないし、それは僕も研究者じゃないし、想像もできないんだけど。なんかね、そういうものと関われるのは、幸せなんだよね。喜びなんだよ。だからそういう意味では信仰する人の気持ちっていうのも分からないではない。宗教、キリスト教とかね。で、やっぱり自分でなんかそういうふうに遠藤周作は自分で自分のイエスっていうのをまあ感じて、捉えていったわけだよね。多分、自分でやっていくっていうのがすごく大切なんですよ。遠藤周作は小説家だから、自分の創作とキリスト教っていうのが物凄く深く結びついているから、ある意味自然とそれをやってたんだと思う。それを、何もつくる経験がない中でいきなり宗教と関わろうとすると、その説明に溺れてしまうよね。そこが結構、なんていうか、境目かなあ。そういう意味ではやっぱなにかつくる、芸術、表現をしてみるっていうのは信仰においてはもしかしたら有効かもしれないよね。
10%の希望を捨てられない
モ:そうですね。一人ひとりのイエスはあるけど、じゃあ僕は僕のイエスをって無批判につくるととんでもないイエス像が出来ていくみたいなこともあるし。絵を良かれ悪しかれジャッジしてしまうっていうのもあるけど、自分のイエス像もなんだろう、クオリティとかいうとアレだけど、常にその像に対して自ら批判することができないといけないんじゃないか。自分で編み続けるっていうか。宗教は何かパーフェクトな世界観が与えられるのかと錯覚されているけど、やっぱり同じ宗教を信じている人でも、人によって考え方が全然違うし、かっこいいなと思う人は、ある信仰を土台としながらも、また別の信仰を自分自身で編んでいるっていうか。
ア:遠藤周作は、この人も戦時中若者だったの。あのー、要するにキリスト教徒同士が殺し合ったりしたわけだよね。世界大戦の時に。それを神父が説明できなかったっていう、それに対する疑い、そこから始まる疑いってやっぱりすごく大きかったみたい。だからやっぱりその疑いから始まっているっちゃいるんだよね。お母さんがキリスト教の洗礼を受けてその影響で自分も知らないうちにもう洗礼受けてからずっとキリスト教なんだけども。でも大切だったのはその疑いのほうで。信じるということよりも。で、そこからやっぱり自分で編まなきゃいけないっていうふうになったんだろうね。なんかだから、90%の疑いで、やっぱり編み続けるしかないっていうか。10%の希望はもうなんか、なんだろうね、根拠のない自信みたいなもんだよね。昔、絵描きの先輩に言われたのが、「絵を描き続けていくっていうのはなかなか困難なことだ。その為に必要なものが3つある。1つは健康、身体は絶対壊しちゃだめ。お金ないから病院とか行ったら金かかるよ。もう1つは仲間。色んなことを話せる仲間が必要。最後の1つは根拠のない自信だ。」って言ってて。その3つがあればとりあえず続くって言われて。20代の時にへぇ~って思ったんだけど。根拠のない自信っていうのは多分その10%の希望と同じことだと思うんだよね。90%の疑いを持ちながらやり続けるっていうのは大変なんだけど、結局は10%の希望を捨てられないっていうか、それがあるからやれるっていうか。今僕色々喋ったけど、そんなに崇高な感じで絵描いてないからね(笑) 本当に。もう、あー描けない! とかもう本当イライラしながらやってたりとかするし。描きたくないなあって時もいっぱいあるし。でもなんか、それでもやめないっていうのがね、なんかあるんだろうね。希望がね。
モ:本屋もその3つが大切です。3日間誰も来なくても、4日目は誰か来るだろうって。
ア:なんか、遠いところになるべくね、希望を置いとくのがいいんだろうね。
モ:そうです。汽水空港を今やっていることの反応だったり影響が、自分が死んだ後でもいいんです。そこに対して今生きている時間を懸けれるかどうかみたいのが大事なんだろうなって。
ア:なんか汽水空港の活動も、僕が絵を描くとか絵本をつくるっていうのもそうだと思うけど、何かそれをやったことで大きな変化が生まれるわけではないかもしれないけど、なんかね、ちょっとこう、波をつくっておきたいよね。小さな波でもいいから。それを、いつか人が大きくしてくれるかもしれないし。波と波が合わさって大きくなるかもしれないし。それが本当に死んだ後でもいいから、何か、誰かをトリップさせるようなことになってればすごくいいな。
あとがき インタビューを終えて
今回の文章をまとめている今、参議院議員選挙の投票期間に入った。もうこの10年以上、特に3.11の震災があって以降、毎回選挙の度に「今度こそ何か結果が変わるのではないか」という気持ちを抱きながら、毎回その結果に落胆し続けている。その気持ちの割合は徐々に反転し、まさに90%の疑いと10%の希望という割合に定着しつつある。世の中が自分の思い描いている「マシな方向」に進むことを諦めているわけではない。急激には変わらないということを常に心に背負い続けている状態というのは、諦めを抱いているのと似ている。しかし、諦めながらも希望を持つということは可能なのだということを、今回海太さんとの対談の中で実感として得ることができた。
叶うことのない希望を抱くことへの疲れは、やがて人から10%の希望を喪失させてしまう。それは例えば政治に関わることを一切やめさせてしまうことに繋がるのかもしれない。現時点での政治のシステム、投票という仕組み自体も問い直す必要があるのだろう。もしかしたら「投票行為」自体が、既存の枠組みの維持に対しての同意と結びつくのかもしれない。だが、投票行為に準じるその心の動きは、そもそも100%の純度ある気持ちのなかにある訳でもないはずだ。支持政党、政治家、政治のシステム(そもそも日本に生まれながら投票権の無い人もいる)に対する疑いを伴いながらも投票をするということが大事なのだと僕は思う。その投票結果に鼻から期待していなかったとしても。そして、投票だけが政治に関わることでもない。あらゆる行為は0か100か、白黒はっきりと区別されているわけではない。0と100のそのあいだにある心を、どのような行為に乗せていくのか。大事なのはその意思だ。
叶えられない期待や願いを、それでも持とうとする時に人は「祈り」を必要とするのだと思う。最近読んでいる本にキルケゴールの言葉が紹介されていた。
“祈りは神を変えるのではありません。祈りは祈る者を変えるのです。この講話が問題にすることもそのようなことです。つまり、あなたが告白することによって神がそのことを知るようになるのではなくて、知るようになるのはあなた、告白する者なのです。あなたが闇のなかに隠すことができた多くのことを、全知者に知ってもらうことによって、初めてあなたはそれを知るようになるのです。”(『人間になるということ』(須藤孝也著 以文社)より)
神や祈りを政治の話しに絡めて語ることは危険なことかもしれないが、社会というものが政治によってその影響に大きく左右されてしまう以上、世界の姿について考えることと政治とは分かち難いものになってしまっている。個々に抱く理想の世界の像を求める時、「祈る」ということは何を意味しているのか。
「祈る」とは、神に願いを伝え、神に動いてもらうということではないのだそうだ。そうではなく、“「-祈る者は自分が聴くものになるまで祈り続けるのである。」”ということらしい。要求を伝えるのではなく、聴くということ。諦めの先の諦めの先にある希望ある沈黙。その訪れをただ待つのではなく、あるひとつの能動的な所作を伴いながら待つ。それが祈るということなのかもしれない。
「理想の世界の像」なんてものも、確固とした姿があるわけではない。固定化されたユートピア像が愚かしいことは知っている。だが存在できず、言い表すこともできないその世界の姿は、見ることはできないが確かにある。「ページとページのそのあいだ」に。海太さんと対談できて本当に良かった。
阿部海太さんの蔵書から「スピらずにスピる」を進めるうえで参考になりそうな本を教わりました。以下がその本のリストです。
「私にとっては神とは」(光文社)遠藤周作著
「縄文の音」(青土社)土取利行著
「壁画洞窟の音」(青土社)土取利行著
「生きがいについて」(みすず書房)神谷美恵子著
「来者の群像」(水平線)木村哲也著
「ギリシア神話」(ちくま書房)串田孫一著
「祈り」(パウロ文庫)奥村一郎著
「闇を光に ハンセン病を生きて」(みすず書房) 近藤宏一著
「祈りの現象学 ハイラーの宗教理論」(ナカニシヤ出版) 宮島俊一著
「神話的時間」(熊本子どもの本の研究会)鶴見俊輔著
「宗教とその真理」(春秋社)柳宗悦著
*1 イエス・キリストや聖書における重要な出来事、教会史上の出来事などを描いた絵。
阿部海太(あべ・かいた)
プロフィール
絵描き・絵本作家。1986年生まれ。埼玉出身。 東京藝術大学デザイン科卒業後、ドイツ、メキシコに渡る。2011年より東京にて絵画と絵本の制作を開始。翌2012年に本のインディペンデント・レーベル「Kite」を結成。2016年夏より拠点を神戸に移す。著書に「みち」(リトルモア)、「みずのこどもたち」(佼成出版社)、「めざめる」(あかね書房)、共著に「はじまりが見える 世界の神話」(創元社)がある。
モリテツヤ(もり・てつや)
汽水空港店主。1986年北九州生まれ。インドネシアと千葉で過ごす。2011年に鳥取へ漂着。2015年から汽水空港という本屋を運営するほか、汽水空港ターミナル2と名付けた畑を「食える公園」として、訪れる人全てに実りを開放している。
この連載のバックナンバー
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「スピらずにスピる」序文
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第1回「神話≒ラグ」を編み直す
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第2回「絵を描くことと信仰」 特別インタビュー 阿部海太さん
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第3回「絵を描くことと信仰」 特別インタビュー 阿部海太さん(後編)
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連載「スピらずにスピる」5月休載のお知らせ
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連載「スピらずにスピる」8月休載のお知らせ
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第4回「カナルタ 螺旋状の夢」監督・太田光海さんに会いに行く(前編)
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第5回「カナルタ 螺旋状の夢」監督・太田光海さんに会いに行く(中編)
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第6回「カナルタ 螺旋状の夢」監督・太田光海さんに会いに行く(後編)
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第8回「あんたは紙一重で変なカルトにハマりそうだね」
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第7回「どのように金を稼ぐか/どのようにスピらずにスピるか」
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第9回「モリくんはクリスチャンにならへんの?」
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第10回「メタバースYAZAWA論」
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第11回「沼田和也牧師との出会い」(前編)
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第12回「沼田和也牧師との出会い」(後編)
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第13回「バースの儀式」