前回に引き続き、映像作家であり文化人類学者である太田光海さんに汽水空港のモリテツヤが会いに行くという、そんなお話の続き。どうぞお楽しみください。
太田光海(以下:太)
モリテツヤ=(以下:モ)
アマゾンのラグ
太:まず、ヨーロッパに滞在しながら、(東日本大)震災後の日本を遠目から眺めつつ、音楽家の三宅洋平さんとかを見つつ、という数年を過ごして。なんかだんだんすごく日本で居心地の悪さを感じて来たんですよ。それでヨーロッパに行って、ある種解放された面もありつつ、ヨーロッパもヨーロッパでものすごくがんじがらめになっているっていう現状を目の当たりにして、なんか第三極が欲しいなと、自分の中ですごく思ったんですね。僕はパリにいた時に岡本太郎からものすごく影響を受けたんですけど、彼も人類学をマルセル・モースの下で学びながら、当時シュールレアリスム運動とかに関わっていて、でも同時にヨーロッパの限界も感じていて、自分はどうしたらいいかっていう時に彼はメキシコに飛ぶんですよ。メキシコで彼なりの第三極っていうのを見つけて、そこで自分の独自のクリエーションを紡いでいくっていうことになるんですけど、僕もそういうのが必要だなと思ったんですよね。やっぱりヨーロッパ流の学問をかなり高いレベルで叩き込まれつつ、でも彼らが人類学を通して他の民族を眺める視線って、すごく植民地主義的な視線も強くて、やっぱり支配者の思想だったんですよ。だから、それにも100%賛同はできないと思った時に、その外側に出る必要があるなっていうのをすごく感じて。それはおそらくヨーロッパが限界まで言葉を突き詰めてやってきたこと、それこそポストモダニズムとか、哲学者・ジャック・デリダの脱構築思想とか、それもそれで西洋的理性に対する批判として重要なんですけど、でもまだ言語依存的だったということだと思うんです。それをどうやって身体に持ってこれるんだろうってことをずっと考えていた時に、(南米の)アマゾンというものが浮上してきて。僕が日本生まれの人間として日本古来の神道思想とかを研究してももちろんいろいろと得るものがあるかもしれないんですけど、それでは長期的な視点から考えると自分にとって何か広がりや深みが足りないってその時は思って、行ったわけですよね、アマゾンに。でも、言語依存的思考を突破するためには科学の頂点も一旦知っておく必要がある。科学の頂点を知った上で、でもここに限界がある、じゃあどうしようって感じでした。
モ:その時には既にアマゾンで映像を撮るってことを決めていたんですか?
太:決めていました。映像っていう手段もある意味、自分の身体にどうやって還っていくのかってことを突き詰めた時に、言葉だけではない表現手段として浮上してきたという側面があって。映像にいくまでは、僕はずっと写真をやっていたんですよ。写真がしばらくの間、自分の中での回答だったんです。写真って言葉を一切介さないメディアじゃないですか。そこに惹かれていたんですけど、写真だけだと伝えきれないものがどうしても自分の中にあるなってことにも気づいて。映像だったら言葉も含められるし、ストーリーも構築できるけど、その上で言葉以外のものも盛り込めるっていう。それでアマゾンに向き合うにあたって学問というものに片足を置きつつ、でも映像を撮るっていう、そのアプローチに目覚めたっていうのがあります。
モ:それってロジックの限界を感じて、その外側に出たいという太田さん自身の探究だと思いますが、それは「人の課題」でもあると思うんですよね。
太:そう、人の課題でもある。
モ:この社会に生きていて、それが足りないっていうことを感じていたっていうことですね。
太:そうですね。
モ:だから、その時点で木とか土とか以外の精神世界みたいなものの領域に踏み込むために、単なる自然豊かな場所ではなく、シャーマンの文化が残っている場所を選んだ?
太:そうですね。ちょっと話が前後するかもしれないんですけど、震災の時にすごく感じていたのが、「自分がどこに痛みを感じるのか」っていうところに何か問題がありそうだなということで。つまり、すごく考えたのは、自分の大切な家族とか大事な人たちが殺されたり死ぬっていう時にすごく悲しくなるじゃないですか、でも一方で何かが消えても悲しくならないこともあるじゃないですか。僕は震災で土地が汚染されてしまった時に、言いようのない悲しみを感じたんですが、一方で平気で沖縄のサンゴ礁とかをぶっ壊す人がいる、と。これは何だ、と。なにか痛みの感じ方に根本的な問題があると感じたんですよ。その時に、例えば木が倒されて悲しいみたいな感覚はどうやって生まれるんだろうなってことを考え始めたんですね。それで思ったのが、より自然と直接的に関わって、自然に自分の生存自体をある意味、握られているような人たちっていうのは、簡単に壊せないだろうなって。壊すにしても何かそこには信頼関係のようなものが前提としてあった上で、それをいただくみたいな感覚があったりするのかな、みたいなぼんやりしたことを考え始めて、それがあるとしたら、何なんだろうっていうところにどんどん興味が向かって行ったんですよ。
モ:その時点では、その感覚を何て呼んでたんですかね、太田さんは。
太:その感覚を、なんて呼んでいたか?
モ:何として認識していたか? 木とかへの畏怖とか。
太:たぶん、当時はもうちょっと経済論的に考えていたかもしれない。でも、経済っていうのはお金の経済ではなくて、美術家の坂口恭平さんが言っている”オイコノミコス”っていう概念。「経済=エコノミクス」の語源であるギリシャ語で、今訳すならば「家政」っていう意味の単語のことを彼は震災後数年間ところどころで語っていたんですけど。オイコノミコスっていう地点に返るべきだって、お金とかではない「生きる」という根本から発生する経済のあり方に立ち返るべきだって言っていて。なるほど、と思って、最初はそういう感覚で見ていました。だから、実際にどうやって自然と関わりながら持続可能な形で経済を回しているんだろうなと。その時点では自分の感覚が都市的なんですよ。「回す」ってことにとらわれている節があって、そこにはマルクスの思想とか、そういうのも入っていたし、もうちょっと視点を変えるとカール・ポランニーっていう人類学者は、原初的な経済システムっていうものが、市場経済に移ったときにどういう変化が起きるのかみたいなことを自著『The Great Transformation』[1]の中で書いている。『大転換』っていうのかな、日本語だと。そういうところから着想を得ていました。でも、実際にアマゾンに行くと、回すとかそういうことですらないんだなということになっていくんですよ。なんて言うんですかね、もっと流動的で、いわゆる理性的なものですらない、もうちょっと透明感のある繋がりっていうんですかね。そういうものがアマゾンで暮らすにしたがって、どんどん見えてきて。
モ:それはセバスティアンたちの自然との接し方を見てでしょうか?
太:そうです。接し方もそうだし、実際の彼らの動きですよね。彼らの動きとか、あらゆるものを見て、ですよね。
モ:動きっていうのは、例えば劇中に出てくるような、蔦に絡まっていた草をかじってみるみたいな、そういう?
太:それもそうだし。川辺を歩いている時に一瞬で魚がどこにいるか見えて、それを、例えばアマゾンだと毒流し漁って言って、バルバスコって呼ばれる木を叩いて樹液を出して、それを川に撒くと魚が麻痺して浮かんでくるんですね。それを獲って食べたりするんですけど。一連の動作が極限まで合理的なんですよ。超ミニマルで。これが演劇という場で演じられていたら完璧な演技だと、寸分の狂いもないシンクロだなと思えるような動きをするんですよ。それって、彼らが魚の動きとか川の流れとか、どのタイミングで火を熾して、ということを瞬時に理解しているからだと思うんですね。そして、何の器具も持っていないんですよ、彼らは。キャンプ道具とか一切持っていないんで。マッチだけですね。マッチだけはあって、その辺から木を持ってきて、それを焚火にして、魚と火を持ってきて、その魚を刺して焚火の火に当てるわけなんですけど、その刺す木もその辺から拾ってきて、「この形、Y字な感じでいいな」って観察して刺して、ちょうどいい長さでちょうどよく焼ける、みたいな。ていうことが、全部把握できているんですよ。つまり、完全に自分が属している環境下で、「こういうことがやりたい」、この時点では「魚を獲って食べたい」っていうことだと思うんですけど、この一連の動作があるっていう時に、そこで俺だったら「こういうことがあるから、この準備しないと(いけない)な」みたいなことを一生懸命考えて準備しないといけないところを、彼らはすべて流れるようにやっていたんですね。そういうのを見た時に、これが環境と繋がっているってことなのかなって、すごく思って。じゃあ、それ自体の感覚はどこから来てんだ?ってことを、どんどん深めていくと、例えばその裏にアヤワスカの体験があったりしていくわけですよ。そこで必然的に精神世界的なもの、まあ、都会の文脈で言う精神世界的なものっていう、それが立ち上がってくるんですけど。そういうものが彼らの生き方そのものから浮上してきた時に、それが見えてきて、その状態でもう一回都市の文脈に戻ると、そこから見ているその精神世界っていうのは、すごく捻じ曲がったものとして映っているな、と。なんか変にドロドロとした、いわゆるスピリチュアリズムみたいなものが、すごく投影されていて、本当はもっとスムースで透明感のある、必然的にそこで浮上してくるものであるはずのものが、なんか異様な理想とかロマンを溜め込まれた状態で投影されてんな、みたいな感覚になってきたんですよ。
モ:それはアマゾン以前と以降の太田さんの視点の話しですか? それとも日本の都市の人から見た話しでしょうか?
太:多分さまざまな経験が折り重なっていて、自分の感覚に対してもそう思いましたし、例えばアマゾンの辺りにいると、たまにアルゼンチンやアメリカから、冒険家とかバックパッカーの人が、いわゆるヒッピー的な人が来るわけですよ。彼らと話すと、彼らは実際にアマゾンの村には行かないわけです。村の近くに行って、その空気感を味わって、なんならアヤワスカを体験して、リトリートツアー(Retreat tour)をして帰っていくっていう感じなんですけど、例えばそういう人が見ているアマゾンの像と、僕がセバスティアンたちと暮らして体感しているそういう世界との間に、なんかまだ壁があるなっていうこととかを感じていたり。さまざま経験が折り重なってるんですよ。その頃ナショナルジオグラフィックを読んだりすると、確かに良いことを言ってるんだけど、なんか壁が一個あるっていう感覚ですかね。
モ:旅行者だと生活者としての感覚とはどうしても一緒にはなれないですよね。
太:そうなんですよ。もちろん僕もアマゾンで長く暮らしたとはいえ外からの人間ではあるんですよ。だから自分自身が完璧にその壁を越えてるとは言い切れないんですけど。凄い長い期間に渡って、西洋的な科学的理性を基に積み上げてきた人々の、アマゾンの民族社会に対する知識とかそういうものって、なんかこう、限界があって、その限界を突破しないとなと思いました。多分そこで、アメリカの人類学者、カルロス・カスタネダとかも関わってくるんですけど。カスタネダは凄い重要なんですよ。彼は、まあドンファンという師匠的な人から学んでそれを書籍化した人じゃないですか。彼はUCLAで人類学の博士号を取っていて、その研究を基にその本を書いてるわけですけど、正統派の人類学の世界からは否定されてる人なんですよ。要は創作の疑いがあると。学術的には全然受け入れられてない。で、僕がマンチェスター大学で博士論文を書いていた時に、カスタネダについて集中的に考えていた時期があって。当時、カスタネダについてどう語られていたのか、過去の、50年前とかの論文を英語で遡りながら読んだりしていて。その過程でわかったんですけど、カスタネダを擁護する論文も、数は少ないんですけど当時出てたんですよ。で、カスタネダが突きつけている問題っていうのは、「根本的に人類学の役割は何なのかということを問いかけているものだ」みたいなことを言っている論文も70年代にあったりするんですけど、全然読まれてない。なんなら無視されてる。で、僕の指導教授とかにそんな話しをしようものなら「おまえ何やってるんだ、やめろ」みたいな感じなわけですよ。
モ:トンデモ扱いみたいな?
太:トンデモ扱いです。だから、そっちもそっちで、もう、ある意味思考停止した状態でベルトコンベアーのように進んじゃってて、で、別の世界線に入っちゃってるんですよカスタネダ的なものって。でもその感覚がなんで別の世界線に入っちゃったかっていうと、僕が考えたのは、当時カスタネダが考えていたようなこと、今でもそうなんですけど、それは、先を行き過ぎていたのかなって。「科学」というシステム自体が存在しない遠い未来の世界まで、彼は見ていた、だからそのシステムに囚われずに「科学」という体系を自分の言語と身体に引き戻した。その状態であの著作を残したのではないかと。震災後の新しい感覚、要はジャンルに囚われずにあらゆる知識とかインスピレーションを自分の中でリミックスしてそれを自分のライフスタイルに活かしていくという新たな生き方が日本で生まれたとして、それをまだ西洋の本流の学問は見れていないんだな、と。
モ:なるほど。
太:というのを、カスタネダに関する当時の議論を読みながら思ったわけです。だから、これをどうにかしてこっち側に引き戻さなければならないんだというのは、当時考えていたんですね。でも、僕はカスタネダについて自分の論文で書けないんですよ。
モ:禁じられているから(笑)
太:うん、禁じられている。それを書くと博士号をとれないところに追い込まれるので。書けないんですけど、どう考えてもこっちの(カスタネダ的な)感性が必要なんだってなった時に、うまくそれをレイヤーとして仕込んで、映画「カナルタ 螺旋状の夢」に入れ込んでいるんですね。
モ:そういうことなんですね。
太:だから、カナルタは時限爆弾みたいな感じなんですね。僕は明言はしていない。公的にカスタネダのこういうところに意義を感じていてとは博士論文でも書いていないし、カナルタでも言っていないんですけど、時限爆弾のようにレイヤーとして仕込んでいて、気づくひとは気づくだろうなと。いずれ時代が変わっていった時に、意義が見えてくるだろうなという希望を込めて入れているんです。
モ:僕からしたら必要とされる時は今まさにって感じだったんですよね。
太:僕も今まさにとは思ってます。でも時代の移り変わりはそんなに一筋縄では起きないともひしひしと感じていて。モリさんがそう感じられるのは、たぶん日本で(東日本大)震災を目の当たりにして、お医者さんが放射能は危なくないって語っているからそれを素直に聞きましょうとか、そういう話じゃないよね、みたいな感覚を10年以上前に掴んでいた、というのも大きいと思います。あの頃、けっこう御用学者がたくさんいたじゃないですか。
モ:はい。
太:御用学者がたくさん出てきた時に、日本で科学の権威は失墜したと思っていて。でも、まだ科学がまともだということになっている国や地域は多くて、日本でもまだそう思っている人はいると思いますけど、僕はあの時、御用学者を目の当たりにして、科学とは、人類共通の真理を追い求めた結果の財産というよりは、いろいろなパワー・ポリティクスが動いていて、資金の流れとかもあって、その中である種の立場とか世界の見方を権威付けするために存在しているという側面もあるんだなと思ったんですね。スピリチュアリズムに対する不信は、その根底に科学に対する信頼があるじゃないですか。「それは科学的じゃないですよね」という批判が出来るから、スピリチュアリズムは否定されているじゃないですか。でも、科学の権威が失墜してしまったら、どっちなの?ってことになるじゃないですか。
モ:そうですね。
太:科学というものが大きくなりすぎた結果、その裏から出てきたものがスピリチュアリズムだとしたら、科学が崩壊した時に、科学主義の影として出来たスピリチュアリズムもまた変わらないといけないなと思うわけですよ。それで、今その瀬戸際にいると思うんです。どっちも失墜しつつあるという時に、本来スピリチュアリズムと呼ばれてビビられて、避けられてきた要素が意外と良かったりするかもしれないし、「これは科学的事実です」となっていたものが意外と嘘だったかもしれないし。じゃあ、僕らはどうやって、その両方を全否定もしないけど、両方とも受け取らないという形で自分をリミックスできるのか、ということだと思うんですよ。
モ:震災当時、科学もですが、同時に変なスピリチュアル的な動きも見えていたんですよね。Twitterとかでも、知り合いの中でも。
太:あと、陰謀論とかもね。陰謀論で語られていることが一部にせよ真実である可能性も僕は大いにあると思っていますけど。
モ:当時Twitterを眺めていたら、原発の気持ちを代弁することが出来る少年みたいなアカウントがあって、「原発さんは大丈夫って言ってる」とか言っていて、それがすがりつきたいという思いとともに賛同されたりしていて。放射能あぶない・あぶなくないっていう議論があった時にも、知り合いが「放射能は愛の力、つまりビタミン愛で解毒できる」みたいなことを関東から一旦距離を置こうとしている僕に言ってきたりとかする。確実に悪影響のある放射能に対して謎のパワーで対抗しようとしていることにも疑問があったし、御用学者みたいな人たちの唱える科学も信用できないし、政治も金の力でしか動いていないように感じる。そうなると自分を取り巻く周辺の仕組みからではなく、自分の足下の、アスファルトの無い地点から暮らしを作っていかなければと思って、それで鳥取で畑やったり小屋を自分で建てたりして、自分で自分のセーフティ・ネットを作るという試みをしてるんですよね。それで、食費や家賃を抑えて…という状況を自分で作っても、でもやっぱり税金払わないと逮捕されるし、この社会の仕組みから逃れられないっていうことになって、やっぱり政治にもちゃんと意見を言う必要があると思っているんですが、大事なのはその言い方というか、世界観だろうと思うんです。日本では今アナキズムが流行り始めているような気がして、そこにちょっと希望を感じてます。
太:あ、そうなんですか。(デヴィッド・)グレーバー的な?
モ:そう、グレーバーが日本で流行ってる気がします。
モ:うん、『ブルシット・ジョブ』もだし。
太:『文學界』[3]で、確か「アナキズム・ナウ」っていう特集されていましたね。
モ:あ、そうなんですか。
太:あと、松村圭一郎さんの…
太・モ:『くらしのアナキズム』[4]
モ:ね、めちゃくちゃ売れてるんですって。
太:みたいですね。彼も映像人類学者なんですよね。
モ:このアナキズムっていう言葉の捉えられ方も、ここ10年くらいで日本国内で変わってきてるんじゃないかと思うんですよね。僕が学生時代に「アナキズム」という言葉を知った時は、本当にバリバリの社会運動家とか活動家とかが使っているすごく硬質な言葉という印象でした。
太:アンティファとかですよね。
モ:すごく硬いイメージの言葉だったのが、松村さんが『くらしのアナキズム』というタイトルの本を出して、くらしに基づいた生活として、生きられる知恵としてのアナキズムを文化人類学者が紹介したら、これが皆に納得のいくものとして受け入れられている。
太:うんうん。本来アナキズムは、そういうところにあったんですけどね。クロポトキンとか、初期のアナキズムの発想をもたらした人たちの著作を、僕はけっこうずっと読んでいたんですけど。彼らの思想の中には、そういうものが息づいていて、それがどうして無政府主義で「国家をぶっ潰す」みたいな、それだけになってしまうのかなとはずっと思っていたのですが、でも、『くらしのアナキズム』は、僕もまさに最近読んでいるんですけど、あれは確かにひとつの接続点として重要だと思いますね。
モ:だから、アナキズムという言葉を翻訳しなおしているということですよね。
太:そうです。本来、重要なことは全部出ているんですよ。古代ギリシャ思想とか老荘思想とかを読むと、大事なことはたいてい何千年も前に言われていて、本当はそれを素直に読めばいい話なんですけど、最新の文脈の中でそれをどう落とし込むのかという時に、練り直しがあることによって届きやすくなるというのはあるんでしょうね。
モ:うん。だから社会学者の見田宗介さん的に言うと、そういうことが切実な問いとして目の前に現れたということだと思うんですよね。それで、グレーバーとか松村さんとかがアナキズムを翻訳して届けていて、要は無政府主義とかではなくて、国とか警察とか権力なしにも人間というものは助け合っていきているではないか、ということを伝えてくれているわけじゃないですか。そして、実際にその例があるじゃないか、ということ。そこまでは皆、語っているなと思うんですけど、「なぜ人間は助け合うのか」や「そのマインドは人間のどこから湧いてくるのか」ということを考えていくと、やはりスピリチュアルなことに向き合わざるを得なくなってくると思いますけど、それを語っている人があまり見当たらなくて。知らないだけかもしれないですけど。 でもそのスピリチュアリティに今生きている自分がもう一度接続し直すという時に、そのとっかかりが無いと感じるんです。過去から伝わっている叡智は失われてしまっているように感じるし、仏教は形骸化しているし。各地にシャーマンのような人はいるけど、でも自分はその文化の中に生まれていないし、そこからそれを真似したってコスプレにしかなれない。この迷子の自分が、どうやってそれを獲得すべきかという足掻きをしているんですよ。このじたばたをいろいろな人と話して、とっかかりを練っていきたいという感じなんですよ。
太:すごく分かりますし、そこで僕がアマゾンに行ってロジカルって感じたことが、ちょっと繋がって出てくるかなと思うんですけど。何もない状態の時って、本当にどこから始めればいいのか分からないじゃないですか。僕もそうだったんですよ。それで、アマゾンに行って、いろいろなものが腑に落ちたんですけど、その腑に落ちたことの中のひとつに、人間本来…いや、本来って言っていいか分からないですけど。アマゾンの人たちは遠くからの目線だとどうしても未知じゃないですか、どのような考え方で生きているのか本当に分からないし、どんな感覚を持っているのか掴めない、だからこそ理想化もされやすいじゃないですか。それで、一生懸命に勉強しようとしても、アマゾンの人について書かれた本は、なんだかおどろおどろしい感じだったり、妙に…例えば、最近流行っているエドゥアルド・コーンの『森は考える』[5]という本ですとか、ヴィヴェイロス・デ・カストロの『食人の形而上学』[6]という本を読んでも、たぶん人類学者以外の一般の人が読むと、なんかしっくりこないな、現実味がないなという感覚があると思うんですよ。日本語に翻訳されたのは最近ですけど、すでに10年前くらいにヨーロッパで彼らの本が出ていたので、それらを読んだ状態でアマゾンに行った時に、一旦自分の考え方を変えないといけないなと思った瞬間があって。現地でしばらく日常を過ごす中で、アマゾンの人たちの普通の喜怒哀楽のようなものをもう一度真剣に受け止めないといけないなと思ったんですよ。ほとんどの人類学の本って、とある民族の人たちが実際にどういう喜怒哀楽とともに生きているのっていう感覚を意外と全然語らないんですよ。すぐに社会システムや宗教とかの話にいっちゃって、日常の感覚を全然伝えてくれないんですよ。これ、なんなんだろうな、って思いながら、アマゾンに行った時に、例えば彼らの普通に「友だち欲しいよな」っていう感覚とか、「家族とは仲良くしたいよね」っていう感覚とか、「困っている人がいたら手伝うよね」っていう、その感覚があるっていうことを目の当たりにして、小難しい人類学理論からではなくて、こういうところから一旦始めないといけないなと思ったんですよ。たぶんそこで僕にとってのラグを編み直すという作業が始まったと思うんですけど。何もないところに立ち返って、新たなラグを作るためには、理屈っぽい話とかスピリチュアル的理想とかじゃなく、彼らにとっての「やっぱりこういう瞬間って楽しい」とか「こういうことしたら気持ちいい」とか、そういうことを第一に受け止めて把握することが大事だと思ったんですよ。そこから積み上げていけば、アナキズムとか言葉としては強い言葉があるとしても、もう一度自分たちの次元に引き戻せるのではないかと思いましたね。 例えば、暴力というものが今、問題じゃないですか。ロシア・ウクライナの話もそうですけど。今改めて、暴力って何かということが議論されていると思うんですけど、差別もそうだし。その時に、ちょっとありがちで危険だなと思うのが、我々が想定するいわゆる人権思想というものは、部族社会にはそもそも無いから、人権を傘に「戦争反対」と安易に言うのも良くないというような、要は西洋近代的な価値観の外側に立とうとして、部族社会的なものを参照している人たちが逆に暴力肯定派みたいになっちゃうようなことってあるじゃないですか。これもなんだか変なプロセスだなと思っていて。アマゾンの人たちは、暴力を全然肯定しないんですよ。なんなら彼らは権利をすごく大事にするんです。僕がアマゾンに行って彼らと交流する中で思ったのは、彼らのそういう「暴力は好きじゃないし、人がいたら助けたいし、仲間は欲しいし」っていう感覚は、西洋近代的価値観と全然矛盾しないし、普通の人間らしさだということに立ち返れた、というのもあって。そこが自分の中で繋がると、めちゃくちゃ遠くにいる存在ですけど、共通のものが見出せるじゃないですか。となると、僕の中では、揺るがないものが一個できたんですよ。
モ:同じ地点からの視点も持っている。この身体っていうものは一緒みたいな。
太:そうなんです。彼らは、人種や民族という概念も書物から得られる概念とは違う概念で考えているんです。すごく面白いんですけど、彼らも彼らで僕のことを存在として把握したいんですよね。正直、(僕のことが)宇宙人のような感じなんですよ。だから、彼らは最初は「アキミって、血は何色なの?」って、聞いてきたりして。
モ:あははは(笑)
太:「アキミの血って、青かったりするの?」って本気で分からないから聞いてきたりするんですよ。「いやいや、俺の血は赤いよ」って言うと、「あっ、じゃあ俺たちと同じだ」っていう感じなんですよ。彼らがよく言うのが、「俺もお前も血が流れていて、肉があって、骨があるよね。ってことは同じなんだよね。」というようなことをむこうも聞いてくるわけですよ。「いや、そうだよ」って。「お前、家族いるよね?」「うん、家族いるよ」って、そういうレベルで(笑)
モ:へえ、むこうはむこうで確認したいわけなんですね。
太:確認したいわけなんです。そこが分かると、彼らも安心する。それで、さらにそこから何が進むかというと、彼らにとって人種とか民族っていうのは、もちろん姿形がちょっと違いますけど、彼らは自分たちの肉体は、自分たちが何を食べてどんな環境で生きているかによって変化しているということをすごくよく分かっているんですよ。ということは、僕のような存在も彼らの土地で何年も過ごしたら、自分たちと同じになっていくと発想するんですよ。人間の身体自体は変わるので、そこは人種とか民族とかそういうもので括られなくて、流動的に無限に生まれ変わっていくものだという考え方を彼らはするんです。となると、僕が感じていた○○民族がどうとか、自分は日本人の血を引いていてとか、関係なくなるなって。そうすると境界がまたひとつ消えるじゃないですか。彼らはそれを植物や動物にも広げていくわけですよ。「あの鳥はあの木の実を食べていて、その鳥を俺たちは食べているから、あの鳥と同じものを食べているんだ」という発想をする。「この木から採れる樹液で俺たちは病気を治しているから、この木と俺たちは繋がっているんだ」という、そういう発想をしていくんですよ。そうなると、「自分の体内を流れている血≒この木の樹液」つまり「この木の一部」なわけじゃないですか。そうなるとどんどんと、さっきの話に戻ると、自分の中の痛覚、つまりどこに痛みを感じるかというポイントが環境全体に広がっていくわけですよ。そういう様をどんどん目の当たりにしていった時に、例えばセバスティアンがカナルタの最後のほうで「この木を切り倒すな」ということを歌い上げるシーンがあった時に、それは単に環境保全運動という話ではなくて、本当に自分の肉体の一部がその木でもあるんだっていう感覚に裏付けられているということが分かったんです。
モ:肉体感覚として分かってきた、という。それは僕のような人からすると希望を感じられる。正式な先祖からの血のようなものがなければ、その文化について語る資格がないというようなこともあるじゃないですか。
太:ありますね。
モ:じゃあ、この僕はどうすれば?という。でも、そのラグの書き換えは後天的にも可能なんだということを言われたような気がして、希望というか、「あっ」って今なりました。
太:後天的に可能です。それが出来ないって思わされているのは、結局国家主義の価値観がすごく深いレベルまで行き渡っちゃっているから、今はそこから逃れにくいわけですよね。でも、一度その国家主義によって生まれた概念の限界っていうものを見切ってしまえば、それを、英語だとUnlearningって言うと思うんですけど、「学び捨てる」ことも出来ると思うんですよ。僕自身はその「学び捨てる」というプロセスをアマゾンに行ったことによって部分的にせよ出来たと思っていて、願わくばこのUnlearningする感覚がカナルタを通して伝わればいいなと思っています。
たぶんnoteのエピソード#8[7]に書いたと思うんですけど、先住民の人たちの「私たちの森を守りたいです」というようなPR動画が環境保全運動の文脈で使われている時に自分(の中)に違和感を持ってしまって、画面の中の彼らに共感できないっていう葛藤を抱えたことがあったんですけど、その境界をどうやったら取っ払えるかなというのは考えていましたね。今も考えていますけど。だから、大事なことって本当にシンプルなんですよ。「大事な人を守りたい」とか「この自然が壊されないで欲しい」とか、本当に大層な理屈なんか要らなくて。そういう感覚って誰しもどこかにあると思うんですけど、どうしてもその感覚に違和感を引き起こすような体系が埋め込まれてしまっていて、壁が作られてしまっているんですよ。だから、Facebookとかを見ていても、いくらでも「人道支援をしましょう」っていうような広告が流れてくる。でもそれを見てすぐに共感して実際に寄付する人なんてほんのわずかですよね。そもそも寄付すればなんでもいいという話でもないですけど。でも、セバスティアンがあの木に登って、「この木を倒すな」って言った時に、このセリフをどうやったら陳腐じゃないものとして観てくれる人に届くように出来るのだろうってことは考えました。編集次第によってはマジで陳腐になるんで、あの瞬間とか。それを陳腐じゃなくさせるために命をかけたと言っても過言ではないですね。
モ:鳥取の木こりの友だちが日々森に入っているんですけど、そのシーンが一番良かったって言っていましたね。「木を切り倒すな」っていうあのシーンが。しかも、言葉としてはただそのままの、気持ちそのままの言葉じゃないですか。だからおかしみは感じたらしいんですけど、その木こりの友だちも森に対する思いが似通ったものを感じたからこそ印象的だったんだと思うんですよね。僕はカナルタを観て、遠く離れたシャーマンであるセバスティアンに、現代の日本でじたばた道を歩もうとしている自分と重ねて見ることが、おこがましいかもしれないけど、そういう感覚で観たんですよね。
太:まさにその感覚を引き起こしたかったんですよね。
ヴィジョンとは
モ:そろそろ精神世界の入口が僕にはおぼろげに見えてきたんですけど、今お話ししてくれたことって、僕でも知覚できる話だと思うんですよ。この五感で。普段の日常のシュアール族の暮らしている人びとにも、五感の中で、それはすごく研ぎ澄まされた五感かもしれないけど、五感をフルに使って生活していて、セバスティアンはやっぱりアヤワスカとかマイキュアを使って、ヴィジョンを見ようとするわけじゃないですか。そのことは何なんだろうと思って。それは例えばセバスティアンにとってのロジック、言葉の外に出ようとすることなのか、ヴィジョンを含めてのロジックなのか、とか。ヴィジョンはやはり彼らの日常の外のことなのか、とか。そのあたりの感覚がやっぱり気になるんですよね。
太:まず前提として言えるのは、彼らにとってはすべてがリアルなんですよ。だからヴィジョンも含めたリアリティなんですよ。夢もリアリティだし。いわゆる日本とかヨーロッパに住んでいる人というのは、日常のこの世界があって、とあるものを服用するとそうでない地点に行けると発想するじゃないですか。でも、彼らの中では、とある日常があってという感覚じゃないんですよね。彼らは、子どもの頃、10歳くらいからアヤワスカを飲み始めるので。そして全員やるので。要は人間形成の真っただ中というか初期の段階から、覚醒体験を含めた全部のリアリティが自分たちの現実なんだっていう感覚で生きるわけですよ。だから、ヴィジョンで見るものというのは、本当に現実なんです。でも、その現実というのは、例えば僕がアヤワスカで見たシーンがあったとして、それが現実だよねと言ってしまうと、定義が出来ない感覚なんです。そこにはおそらく言語的なものもあって、彼らの言語は翻訳がしにくいんですけど、言語自体が人間の世界把握を決めるのかという議論は人類学的にも様々な立場があって何とも言い切れないんですけど、一旦言語がその人の世界を規定するという立場に立つと、彼らの言語体系自体が圧倒的に翻訳が難しいので、彼らが「これはリアリティだよ」といったその「リアリティ」はどこなのかというのはすごく把握がしにくい。というのが、まずはあるんですけど、でもそれでも言えるのは、すべてひっくるめたもの。その感覚を彼らはどこから得ているかというと、おそらく日常的に様々な薬草を使って生きているので、様々な薬草のグラデーション的な効力のようなものを感じながら生きているんですよ。だから突然アヤワスカやマイキュアのようなぶっとんだものが現れるのではなくて、その手前くらいの薬草がたくさんあるんですよ。例えば、彼らはタバコの葉でもヴィジョンを見ることをするんですよね。それはどうやってやるかというと、タバコを巻いて火を点けて吸うというよりは、タバコの葉を水に浸して、生の乾燥させていない状態で絞って、その液体を鼻を通して吸って、喉の前で止めて鼻から吐き出すんですよ。タバコの液は超強力なので、すごくツーンとするんです。それで一時的にクラクラする。クラクラした瞬間は別に幻覚とかは見えないんですけど、でもその日眠ると普通よりもはるかに鮮明な夢が見えるんですね。それを彼らはヴィジョン経験のひとつとしてカウントするんですよ。なので、僕の説ではタバコを鼻を通して吸って、それによってその夜に超鮮明な夢を見るというステップがあることによって、そのさらに上の段階のアヤワスカ、さらにマイキュアっていうものを接続しているポイントがタバコにはあると思っています。
モ:へー。
太:タバコの一歩手前くらいにも、また、ちょっと飲むと若干覚醒しそうっていう薬草とか、飲むと一瞬毒に感じるけど結果的に体が良くなる薬草とかがたくさんあるわけですよね。そういうあらゆるものと、ともに生きている状態なので、彼らにとってアヤワスカやマイキュアは全然特別なものではないんですよ。グラデーションの延長上の頂点にあるものという感覚。というのが、まずはありますね。
それで、さらに精神世界的な話で言うと、彼らはアヤワスカやマイキュアを飲むことによって、自分が倫理的により優れた人間になるという考え方をします。そして、それを求めて飲むんですね。そういう意味では、一種の教育の一環なんですよ。おそらくそこには、先ほど僕が言ったすごく低いレベルでの喜怒哀楽の感覚があるじゃないですか、それこそ「家族大事にしよう」とか。例えば、先祖の死んじゃったおじいちゃんとか、そういう存在がアヤワスカを飲むことによってヴィジョンの中に出てきて、そのおじいちゃんやおばあちゃんが自分に投げかけてきた言葉をそこで受け取るわけですよ。それを自分の中で反芻して、じゃあ自分がより良い人間になるために「あの言葉の意味は一体何だったのかな」とか考える。だから自分の痛覚を増やす。先ほども同じことを言いましたけど、喜怒哀楽の深度を高めて、何に痛みを感じるのかを低いレベルというか、より物理的にも精神的にも広がりを持たせた地点に降ろしてくるための一種の手段なんですよ。高いのか低いのか分からないですけど。
モ:なるほどね。
太:その中で彼らは、人間以外の存在と対話をするという話をよくします。アヤワスカやマイキュアを、彼らは森の中で飲むじゃないですか。カナルタの中でもセバスティアンはマイキュアを飲む時は、森のすごく奥深くにまで行って飲んだと言っていますけど、だいたいそういうシチュエーションを選ぶんですよね。でも本当に真っただ中で、僕からしたらどうやって生き残って帰ってきたのかなと思うんですけど(笑)
モ:そんな奥地に行くんですか?
太:めちゃくちゃ奥地に行きます。
モ:数日がかりとかで?
太:もうほんとに。人によっては、とんでもない奥地とかにマチェーテ(山刀)一刀だけで行ったりするんですよ。
モ:自分がここだと直観的に働く場所を求めて?
太:そうです。そもそもどうやって帰ってきてんのかな、僕が行ったら無理だろうな、とか思うんですけど。そういうシチュエーションで飲んでいて、そういう時に彼らは「周りのあらゆる生命と対話をする」と。「実際に分かるんだ、直接木が語りかけてくるんだ」って言うんですよね。木もそうだし、虫も鳥も、本当に語りかけてくるんだと。それで、その経験から一旦目が覚めるじゃないですか。目が覚めると、ここが絶妙なポイントだと思うんですけど、要は完全なる会話が木や虫や生命体と成立する状態というのはマイキュアやアヤワスカを飲んでいる時なんですよ。その時に完全に平等な存在として、彼らは対話できると言うわけですね。目が覚めると一瞬その状態から解除される。解除されるんだけど、でも「あの時、話したよな」っていう記憶は残っているし、その情景も残るわけです。僕も今でも自分の体験のあのシーンって思い出せるんですけど。その残っている経験を携えて、このリアリティを生きていることによって、その体験すらもリアリティの一部に入った状態で、この覚醒していない状態も生きているわけですよね。そうすると、いざ木が切り倒されましたという時に、その覚醒の記憶もひっくるめた痛みや何らかの感情が自分の中に芽生えてくる。それを彼らはすごく重視しているわけですよね。
モ:友情みたいなものが育まれているということですかね。木とか虫とかと。
太:そういうことですね。かといって、じゃあ全く彼ら自身は切り倒さないかというと切り倒しもするんですよ。そこが、いわゆる環境保全とかいうものとはちょっと違う別の関わり方なんですよ。
モ:たぶんその状態だと、切り倒す時にも心の持ち様は変わってきますよね。
太:変わってきますね。
モ:シュアール族の言葉の中に、「愛」みたいなものってあるんですか。LOVE。
太:感覚としてはある、でも一つの名詞というか単語に還元できない、という感じです。「好きだ」という感覚を動詞的に伝えるときは「求める」と同じ単語を使います。「口説く」という行為は「会話をする」という行為と同じ単語です。常に動詞的で、動きの中に概念が宿る、しかし概念だけを取り出すことができない、というのが彼らの世界の特徴でもありますね。
モ:日本語の愛って恋愛の側面ばかりが強調されるけど、本当はもっと海みたいなものだと思うんですよね。愛の海につかる、ひたされるみたいな。そういう満ちているもの、というような。アヤワスカを通じて人間としての倫理を高めたいという時に、「愛」みたいなものの存在が語られることはありますか?アヤワスカを通じてもっと鋭敏に感じたいものが愛みたいなものなのかなと思って。何のために薬草で感覚を広げるのかって、彼らは具体的に言うんですか。
太:これはフィリップ・デスコラという人が言っていて、アマゾンの人たちを語る時に重要な概念としてある「よく生きる」って概念があって、シュアール語だと「Tarimiat pujut=タリミャットゥ・プフットゥ」というんですけど。フィリップ・デスコラがその概念について書いた本があって、日本語にはまだ翻訳されていなくて、早く翻訳されてほしいと思っているんですけど。英語でいうと「Good Life」っていう概念が論じられているんですよ。アマゾンの人たちにとっての「Good Life」って何って。彼らは非常にそれを重視するんですね。たぶんそこなのかなと。一夫一婦制のような、誰かと付き合って恋愛している「愛」というよりは、いわゆるコミュニティ全体のウェルビーイングのようなものをアマゾンの人たちは非常に重視していて、薬草の覚醒体験はいかにそれをコミュニティ全体で共有するかという儀礼なのかなと思います。
モ:世界各地の民族にそういう儀礼ってあるじゃないですか。全部は知らないけど、共通しているのは「愛」みたいな感覚なんじゃないか。「よく生きる」ためにそれやろうとしているんだなとは思うんですよね。だから、「よく生きようとする」ってことがシュアール族の彼らにとっては、やっぱり目指すべき生き方としてあるんでしょうね。
太:間違いなくありますね。すべての動きに必然性が伴っているという話を最初にしたと思うんですけど、それもけっこうその文脈で考えられるなと思っていて、彼らにとって隣の家の人と仲良くいるということは、本当に死活問題なんですね。同じ村の中で同じ自然環境の中で生きていて、食べ物を分け合うこともあるし、木材を分け合うこともあるし。だから、それはその人がたまたまいい奴になりたいから、自分で目指していると言うのではなくて、コミュニティの必然なんですよね。そこが大事な気がします。
モ:僕も田舎で暮らしているのでよく分かります。固定化された人間関係なんで、こじらせちゃうと「こじらせ」を一生涯続けなければなきゃいけないっていうのは、ものすごく心に負担があることなんですよね。
太:そうなんですよ。その厳しさを彼らも生きているので、友だちが欲しいとか仲良くしたいとかいう欲求は、本当に命と関わってくるんですよ。それでその分、それをどうやって保つのか、仮にちょっとケンカしちゃった時にどうやって仲直りするのかとか、どう話し合うのかとか、そういう技術もすごく発達していて。だから、彼らはすごく言葉が巧みなんですよ。言葉が巧みっていうのは、相手を操るとかいう話ではなく、いかに相手の意図を汲み取り、いかに相手の言っていることを受け止め、自分の伝えたいことをニュアンス込みで伝えるかとか、そういう技術がすごい。でも一方で、俺がシュアール族と関わっていてすごくおもしろいなと思ったのは、それもありつつ、すごく個人主義的なところもある。自分自身の人生を生きるっていうことを、すごく大事にしている。ヴィジョン経験というのはすごく個人的な経験なので、彼らは倫理的にいい人間になるという目的もありつつ、アヤワスカやマイキュアを通して自分の未来を見るという考え方もするので、それを見通して自分の人生を生きるということも同時にやろうとしている。僕がけっこうおもしろいなと思ったのは、個人主義と集団主義で対立させられるじゃないですか。ヨーロッパは個人主義だけど、日本は集団主義が強いから同調圧力があってみたいな話になりがちなんですけど、その対立じゃなくていいっていう考え方ができるし、その可能性はたぶん世界中に散らばっていて、アマゾンで僕が体験した世界はその一例なのかなと思いますね。
モ:そうですね。話を聞いていて、それこそが成熟した社会と呼ばれるものだと思う。
太:そうなんですよ。けっこうびっくりしたのが、これも変な対比で、たまにあるんですけど、「僕たちは法治国家に生きてるわけで、未開社会じゃあるまいし、ちゃんと話し合おうよ」ってTwitterとかで言う人いるじゃないですか。いや、そうじゃねえよ、民主的じゃないのは俺らのほうだから、ってたまに思うんですよ。
モ:鳥取って日本で一番人口が少ないんですよ。55万人しかいなくて。今、住んでいる人たちは、県外に出なかったおっちゃん、おばちゃん、じいちゃん、ばあちゃんがほとんどだと思うんですけど、だから小さい頃からの関係性がずっと変わらないままにいて、他所から移り住んだ僕ら世代の人たちもいるんですけど、やっぱり人間関係っていろいろあるじゃないですか。それでこじれてしまった時に、それをどうにかする技術を僕たちは持っていないなってことをすごく感じるんですよね。それを知りたいというか、伝わってきていないのなんでだ?みたいな。今、現代を生きていて、社会というものはどんどん成熟していて、今が一番文化として優れているという勘違いをしているだけで、日々失い続けている技術や知恵があって、今、生まれた地点ではもはや失ってしまっているから、「今こそ作る必要がある」、「今こそ必要だ」という感じで生きているんですよね。
たぶん、まつりごとは、お酒をみんなで飲んで、わっしょいわっしょいやって、その時はたぶん蓄積された憎しみみたいなものが柔和する瞬間なんですよね。だからそういうものは、残ってはいるけども、清潔に整備された形でしか今はもう残っていない。田舎といえど、今は日本中アスファルトを敷いて、言葉というもので清潔に整備された世界に生きていることには変わりはなくて、でもそれだけではできないことがある。その出来ないことはなぜできないかって、技術として忘れられているということもあるし、伝えられていないということもあるし、法律として禁じられているということもある。
太:そうですね、技術としてもそうだし。だから、あらゆるものの対立軸ですよね。対立軸がいろいろなものに存在していることによって、・・・何て言えばいいんだろうな、難しいですね。
モ:僕は最近『気流の鳴る音』を読み終えたばかりだから記憶できているんですけど、ドン・ファンはヴィジョンを見る時に自分に裂け目を作ると言ってるんですよね。その裂け目が世界と一体化する。それで、カラスの予言が知覚できたりする。自分というものと世界というものとの境界をちょっと均す。均すというか、同化させる。それができるからこそ、戦士なのだと、ドン・ファンはカスタネダに言うわけですよね。カスタネダに戦士の道の修行を施す時に、(ドン・ファンが)お前のための守護霊的なものを見つけるために、今日はこういうことをすると(言って、修行の場に)向かっている途中で、「いや、やっぱりちょっと時期が早かったな」と言って引き返すシーンがあるんですけど、カスタネダはドン・ファンと接することで自分の裂け目が開きやすくなっている。だから、知覚することはできても、裂けてしまったその裂け目を自分の力で閉じることが技術としてまだできないから、それをまずやらなきゃならない。「じゃないと、お前死んじゃうよ。世界に溶け出しちゃって」って言うシーンがあるんですよね。何が言いたかったっけな、あ、対立軸の話。対立っていうのは個と個が確固としたものとしてあるから対立してしまう。裂け目によって、ちょっと混ざり合うようなことが大事なんじゃないかって。
太:すごい、分かりますね。
モ:それって、やっぱり言葉による対話では難しい。
太:そうなんですよ。
モ:言葉の外なのか内側なのか分からないけど、言葉ではない対話の仕方をするのがいいって思うんですけど、それが自分には無いっていうことなんですよね。
太:でも、あるか無いかではなくて、たぶん無しには生きられてないはずなんですよ。
モ:そう、それも思います。
太:無しには生きられてないはずだから、それが「ここにあったんだな」ってことを見られるかどうかだと思うんですよ。例えば、いわゆる心理学やコミュニケーション論のような感じで、人の表情から何を読み取るかとか、立ち姿だけで何が伝わるかとか、いろいろな研究があるじゃないですか。アマゾンの人たちは、それを心理学がどうとか考えずに全方位的に感じているんですよ。その人から発せられるオーラとか波長とか、そういうレベルでのコミュニケーションを彼らは体感的に分かっていて、それを何かの本で読んだから知っているという次元ではなくて、ノーステップで分かっているんですよ。言葉のトーンとか。例えば、同じことを言うにしても、こういうトーンで言った時と別のトーンで言った時とで、伝わり方が違うよねとか、たぶんあらゆるものがある。彼らは本来、無文字社会じゃないですか。今では識字率が多少上がっているにせよ、本来的に無文字社会なので、今でも本を読むという習慣をほとんど持っていないんですけど、無文字社会であることによって、すべてが透明なんですよ。肉体でしかないんです、本当に。でも、その感覚は彼らにしか無いんじゃなくて、肉体を持つ限り僕らにも絶対にあるし、それを経ているからこそ今の人間関係が成立しているはずなんですよ。だから、新しい技術として学ぶっていうこともすごく大事なんですけど、今、僕がすごく重視しているのは、本来そもそも自分にあるものを「あったね」って、まず分かることだと思うんですよね。
モ:うん。でも、ネイティブ・アメリカンの人たちの本を読んだ時に、「儀式とは思い出すことを思い出すためにするのである」みたいなことを言っていたんですね。だから、僕は「あるんだろう」となんとなく思うけれど、それを思いだす為の儀式が無い。
モ・太:ははは(笑)
次回は、いよいよ太田さんとの最終章。乞うご期待!
太田光海さんのプロフィールはこちら
[1]Polanyi, K. 1944. The Great Transformation: Economic and Political Origins of Our Time. New York: Rinehart (K・ポランニー1975『大転換 -市場社会の形成と崩壊』(吉沢英成他訳) 東洋経済新報社)
[2]デヴィッド・グレーバー2020『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』(酒井隆史・芳賀達彦・森田和樹翻訳) 岩波書店
[3]2022『文學界』4月号 特集アナキズム・ナウ 文藝春秋
[4]松村圭一郎2021『くらしのアナキズム』ミシマ社
[5]エドゥアルド・コーン2016『森は考える――人間的なるものを超えた人類学–』奥野克巳・近藤宏・近藤祉秋・二文字屋脩 翻訳 亜紀書房
[6]エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ2015『食人の形而上学: ポスト構造主義的人類学への道』檜垣立哉・山崎吾郎 翻訳 洛北出版
[7]太田光海.連載「カナルタ コトハジメ」#8 「森を守りたい」と動画の中で訴える先住民に、共感できなかった理由を考える.2021.9.15 (最終閲覧 2022年8月22日)
モリテツヤ(もり・てつや)
汽水空港店主。1986年北九州生まれ。インドネシアと千葉で過ごす。2011年に鳥取へ漂着。2015年から汽水空港という本屋を運営するほか、汽水空港ターミナル2と名付けた畑を「食える公園」として、訪れる人全てに実りを開放している。
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