前回、前々回に引き続き、映像作家であり文化人類学者である太田光海さんに汽水空港のモリテツヤが会いに行くという、そんなお話のいよいよ最終回。この話はどこに着地するのか!? どうぞ最後までお楽しみください。
太田光海(以下:太)
モリテツヤ(以下:モ)
薬草と儀式
モ:というか、セバスティアンたちでさえ、やっぱりアヤワスカとかの薬草で変わる自分のモードを利用することで、日常的にその感覚に到達するわけじゃないですか。
太:うん。そうです。
モ:日々、森の中で暮らしている人たちでさえ、薬草を使う。この現代の日本に生きている自分は、法律に縛られていて、薬草も無いし、あったとしても使えないし、っていう人々のうちの一人である僕がどうする?っていうことなんですよね。ただの悩み相談みたいになってる(笑)
太:分かりますね。
モ:映画の中では描かれなかったけど、あの映画の中で太田さんに渡されたのはアヤワスカなんですか?
太:最後のシーンで渡されたのはマイキュアですね。
モ:あ、マイキュア。もっと効果が強いやつ。
太:うん。もっと強いやつ。
モ:それを飲んでどうなったかってことは描いていない。
太:描いてないですね。
モ:描いてないですけど、そのマイキュアを飲んだ時の体験って、今にも続いてるんじゃないですか?
太:はい。
モ:マイキュアを飲んで見たヴィジョンは、たぶん大事な体験として太田さんの中でずっと生き続けているだろうと僕は思っているんですけど。
太:マイキュアよりも実はアヤワスカなんですよね、僕にとっては。どっちかって言うと。というのも、アヤワスカとかマイキュアって、けっこう人の体質によって効き方が変わったり、分量の調節が人によっては一筋縄ではいかなかったりするんですよ。それで、僕の場合はマイキュアがそこまで効かなくて、アヤワスカのほうが強烈な体験だったんですよ。
モ:なるほど。
太:ただ、マイキュアの体験に関しては、あそこに至るまでのプロセス、いわゆるセッティングって呼ぶのかもしれないですけど、セッティング自体の強烈さはありました。はじめて森の奥深くにセバスティアンと行ったので。アヤワスカを飲んだ場所は、実はセバスティアンの家なんですよ。まあ、そこ自体も森の中にあるんですけど。でも、マイキュアを飲んだ時は本当に家から離れた原生林の中に行って、そこで飲んだので、そのセッティング自体と、あの日は原生林のど真ん中で夜を明かしたんですけど、その体験自体のインパクトがあって、言うなれば世界のフェーズが変わっていくような体験だったんですよね。通常はもうその辺りの森にはほとんどいないと思われていたすごく珍しい鳥が、急に目の前に現れたりしたんですよ、その時に。そういう一連の体験の全部が一種の霊的な体験だったと思うんですけど、アヤワスカのほうがいわゆる視覚的なヴィジョンとしては残っているという感じです。
モ:そこで見たヴィジョンって、今の太田さんにどういう影響を与えているんですか。見たものからの説明でも、言いやすい方で。
太:見たもので言うと、けっこう下世話な話なんですけど、彼らの中にはアヤワスカやマイキュアを飲むもうひとつの意義があって、将来一緒になるパートナーが見えるって言うんですよ。それを見つけることもアヤワスカやマイキュアを飲む儀式の目的のひとつに近いんです。それで、そういうことを言われながら飲んだんです。僕もそれが見えるのかなという感覚で飲んだんですよ。当時、僕は付き合っていたフランス人の人がいて、その時、婚約していたんですよ。だから、その人が見えたらいいなと思って期待しながら飲んだんです。そうしたら、全然違う人が見えて。
モ:知ってる人なんですか、それは。
太:知らない人です。
モ:知らない人!会ったことのない人が?
太:会ったことのない人が見えて、まぁ、パニくるわけですよ。
モ:ははは(笑)
太:せめて知ってる人ならまだしも、全く知らない人で、想像したこともない人の顔が現れたんで、なんだこれって。
モ:顔の造形はクリアに見えましたか?
太:クリアに見えます。ノートにも特徴とかを書いてある。今でもはっきりと思い出せます。という一幕がまずあり、でもアヤワスカやマイキュアの体験でおもしろいのが、受動的なだけの体験じゃないんですよ。もちろん飲んだ時に自分では予想もつかないものがどんどん見えてくるわけなんですけど、でも一方で明晰夢みたいなところがあるから、自分の意識をどっちに向けるかによって、トリップ体験自体に自分も介入できる要素があって、だからその時に「俺が見たいのはこの人の顔じゃない。俺の今のパートナーの顔なんだ。」って、めっちゃ念じたわけですよ。念じたら、その子の顔がパッて出てきて、そっちに入れ替わったんですよ。入れ替わったその子が万華鏡が動くみたいに分裂して、無限のその子の顔みたいなのが見え始めて、その瞬間、ユーフォリアみたいになるんですよ。
モ:ユーフォリアって何ですか?
太:いわゆる多幸感。
モ:あー。
太:っていう状態になって、「あ、やっと俺が見たいあの子が現れてくれた」って尋常じゃない幸せ感がブワーッて出てきて、そこで触れ合うわけですけど。という一幕があり、でも、その後、その流れが一旦終わって、どんどんまた別のフェーズにヴィジョンがまた移っていって、すごく鮮明に覚えているのが、自分が空を飛んでいる風景ですね。アマゾンの上を飛んでいたんですけど、アマゾンの上空をドラゴンみたいなものに乗りながら、猛スピードでまず上に直角に飛んでいくんですよ。雲を突き抜けてドーンって直角に飛んでいって、そこから平行移動で、アマゾンの巨大な森の上をブワーッと行くんです。という一幕がありつつ、最後は急にいつの間にか地上に降りていて、それも森の中なんですよ。それで、これが衝撃的だったんですけど、人が石器を使って何かを砕いている、植物の根っこのようなものを砕いている音がしてきて、全く聞いたこともない部族の言葉が聞こえてきたんですよ。その部族の言葉はシュアール語でもない言葉だったんですけど、それが流れてきて、しかも自分はそれが分かるんですよ。何を言っているかが。で、どうやら、この情景は、めちゃくちゃ過去に遡って、石器時代レベルの、石器時代というかとりあえずプラスティックとかそういうものが無い時代に、アヤワスカとアマゾンの先住民たちが初めて出会った瞬間という情景だった。ということが、直感的になぜか分かって、その時にアヤワスカが俺に挨拶しているって思ったんです。アヤワスカが俺を迎えに来て、「あなたも人類と私のこのコミュニティについに来たのね。ようこそ」という感覚を受け取って、「ありがとうございます!」みたいな(笑)
モ:笑
太:「僕も来ました、ここに。」みたいな感覚になって、そこからだんだんゆっくりとその情景が静まっていき、パッと目が覚めて朝だったんですよ。
モ:へぇ、歓迎を受けたんですね。
太:という風に直感しましたね。
モ:そのヴィジョンは、今、どう読み解いているんですか。というか、どう感じたんですか?
太:その時に直感的に思ったのは、僕が(東日本大)震災の時に葛藤する時期を過ごして、フランスに渡ってイギリスに渡ってといういろいろな紆余曲折を経て、アマゾンのその地点にいるというこれまでの道程は正しかったんだなと。直感ですね。
モ:なるほど。
太:なんか、感覚的に自分が追い求めてきたものは、そこで抱えた悲しみや喜びやあらゆる感情というのは、今のこの瞬間のために全て必要だったし、それを全て経た上で今初めてこの世界と繋がったんだという感覚ですかね。それはもう、スピリチュアル経験としか言い様がないんですけど(笑) そういう感覚になりましたね。アヤワスカを飲むと、本当に削ぎ落された自分の感情というものがピュアな状態で剥き出しになって自分に返ってくるんですよ。普段、悲しいとか嬉しいとか感謝しているとか、そういう感情ってピュアなものとしてなかなか感知しにくいじゃないですか。なんとなくあるのは分かっているけど、いろいろな雑味が含まれているから、どうしても日常の流れの中で一瞬思うけど、すぐサッと消えてまた日常に紛れ込んでという繰り返しだと思うんです。でも、その時に初めて完全なるピュアな状態で、目の前にその感情が現れたという感じですね。
モ:そのピュアな感情って、日本語だと何になりますか?
太:・・・「愛」ですね(笑)
モ:やっぱりそうなるんですね(笑)
太:この世界に対する愛ですね。だから、あの体験以降、人との関わり方も変わったし、もちろん自然と関わり方も変わったし、自分の身ぶり手ぶりや立ち振る舞い的なもの、存在の仕方というか、そういうものが根本的に調整されたという気がします。もちろんたまにはケンカもするし、気が合わないなって奴がいたりもしますけど、それすらも含めてこの世界を自分は愛しているんだなっていう感覚があります。
モ:イニシエーションって大人になるための儀式って言うじゃないですか。だから、愛を知ることが大人になるみたいなことを、日本でも言うじゃないですか。それをやっているってことなんですかね。
太:うん、そうだと思います。
モ:なるほど。
太:一旦、そこに到達できると、日常の雑務で業務連絡したり、お金の交渉したりとか、もちろんいろいろとありますけど、そういうプロセスすらも、「このくだらない世界でこれをやんなきゃいけない」みたいなやさぐれた感情というよりは、現実のひとつのレイヤーとして見れるようになるというか。愛というのが根本にあって、この世界に筋の通ったものとして自分が存在していて、でも一旦はこのレイヤーに合わせないといけないこともあるというふうに客観的に見れるようになる。そのレイヤーを手に入れられたのは、アヤワスカ体験によってかもしれない。もちろん、それだけじゃなく、アマゾンの経験も全て含めてなのかもしれないんですけど。
モ:自分がやがて死ぬだろうってことが、よりリアリティを持って実感されたことはありますか。
太:アヤワスカによって?
モ:はい。
太:それもありますね。
モ:死生観とかに変化があったんですかね。
太:それもありますね。なんか不思議なんですけど、大事な人が死んでしまうとか、自分が死ぬとか、そういうことが怖くなくなりましたね。
モ:それは、死というものが終わりじゃなくて、死も体験のひとつだということが直感的に分かったという感じですか?
太:うーん、死も体験のひとつ・・・
モ:死後の世界と生きている世界とが、今の日本(の人たち)の感覚としては分けられたものとしてあって、そこで死後の世界というものは全く予想がつかないからこそ怖いとか悲しいとかいうことが生まれると思うんですよね。それが悲しくなくなったということは、死後の世界と今生きているこの世界との境界がちょっと曖昧になったとか、死後の世界の設定というか見え方や感じ方みたいなものが変わったことによってそうなったのか。
太:たぶんシュアール族的なヴィジョン経験も全部ひっくるめてリアルなんだという感覚に近いと思うんですけど、死という経験もそれ以後のことも、この世界のリアリティでしかないという感覚ですかね。
モ:はい。
太:自分の肉体は、火葬されたら骨だけになるかもしれないですけど、それ自体も土に還っていくかもしれないし、遺骨に入れられるか分からないですけど、それもそれとしてただ在るんだなという感覚ですかね。
モ:輪廻した先でまた会えるとか、そういうことを担保とした悲しさの消失じゃないってことですよね。
太:それもあってもいいかなと思います。これはもうアマゾン的なる枠組みとかいうものではなくて、僕自身がすでにパッチワーク的な存在なので、そういうふうに考える時もあります。だから、シュアール族的なアヤワスカやマイキュアの体験を基にした人生観をそのまま丸ごとインストールしたというわけでもなく、ある種の日本的アニミズムのような感覚も無くはないし、うちの家系は一応仏教なんで、そんな信心深いわけじゃないですけど、そういう仏教的な感覚もあるにはあるとして、別にそれも否定せず、都合よく取り入れてもいいかっていう感覚です。
モ:まさにラグですね。様々な糸によって編まれているってことですね。
太:そう、ラグです。それ自体もアマゾンで学んだことが大きいんですよ。映画『カナルタ』の中で奥さんのパストーラが夢を語るシーンがあるじゃないですか。真夜中にライトを照らしながら夢を語るシーン。あの時、パストーラが言っているのは、本からこんな話を読んだということを基にしているんですよ。「ある日、セバスティアンが買ってきた本を読んだら、そこに蛇を殺したら、あなたはリーダーになるって書いてあった」と。それで「私は本当にそういう夢を見て、その後、本当にリーダーになったんだ」と、夢を語るわけなんですけど、それはシュアール族伝統の見方ではないかもしれない。分かんないけど、もしかしたらユングとかの本の受け売りの本だったかもしれない。でも、彼らはそれら全てをフラットに捉えるんですよ。いわゆる「外部」から来たものであれ、そういうものに触れて、そうなんだって思ったら、それをけっこう素直に取り入れて、自分もそうなのかなって思える。本当に透明なんですよ、存在として。そういう状況を目の当たりにした時に、自分が触れている仏教的なものってアマゾン由来じゃないけど、一旦自分が透明な存在であるって分かってしまえば、それを取り入れるか取り入れないかは、それも俺の選択次第なんだというふうに捉えられるようになって、そうするとどんどん存在として自分がニュートラルになっていきますね。その感覚を今、楽しんでいるという感じです。
モ:この現代社会の日本でいうと、絶望を感じる出来事の根っこにあるのは死ぬことの拒絶から来ていると思うんですよ。自分は絶対死にたくない、死ぬことが怖すぎるとか。でもいずれ死ぬんだと本当に思えたら、生きて身体を持っているこの時間をもっと愛おしいものにしたいとか、行動として現れるものが変わってくると思うんですよね。この命の時間を強く意識することができたら。でも、お坊さんでさえ、死ぬことを受け入れられている人が少ないって僕には見えているんですよ。だから仏教の教えが効果を成していない。という地点に今いるんだと、僕は思うんですよね。
太:分かります。それはたぶん、仏教のお坊さんという存在ですらもプロフェッショナリズムというか職業的なものにどんどん還元させられてしまっていて、原体験的なものに触れられにくくなっているからでもあると思いますね。修行とかを積んだにしても。だから、今僕らが生きている状態っていうのは、仮に人類の社会発展史を地層みたいなものとして捉えると、その極端な上澄みの部分だと思うんです。地層みたいなものがブワ―って重なっていて、本当は肉体を持った人間として、人類って何百万年前から肉体の基本構造は変わってないはずなんですよ、だからこの地層の一番深いところが常に自分の肉体の中にあるはずなのに、やたらとものすごい量のレイヤーが重なっちゃって、その一番てっぺんに存在しちゃってるから、その間が見えないんですよ。そこに接続が出来ていないことによって、あらゆる病理が発生してると思います。じゃあどこまで遡ったらそこに行けるのかっていうと、もちろんそれは一概には言えないんですけど。僕はアマゾンでかなりの深いレベルで、薬草体験だけじゃないレベルで、肉体を持った人間のひとりとしての自分という地点に一旦触れることができた気がしていて、そこがあることによって間のレイヤーについても、そもそも「ここのレイヤーがあったんだな」っていう認識自体が今は前よりもできると思っている。だから、仮に今この瞬間の自分はレイヤーのてっぺんに、また居てしまっているとしても、その間を思い出せるんですよ。そこが一本繋がると、例えば鬱病とかそういうものにもかかりにくくなるのかなと思いますけど。鬱病っていうものが存在できないと思うんですよ、アマゾンって。すごく感じました、それは。
モ:実際にそういう人はいない?
太:いないですね。アマゾンで鬱っていう人、いないですね。もちろん、ここに反証例とか持ってこられたら困るんですけど。体感的にここに鬱病は存在できないなと思いましたね。
モ:それは常に自分の深い部分の声というか、魂が分かるから?深い部分の自分を常に見失わないでいれるから?
太:どんなポイントからでも繋がりを見つけ出せるから、じゃないですか。自分が仮に絶対の孤独に陥ったとしても、そこからですら世界との繋がりを能動的に見出せる、ある種の技術というか世界の認識の仕方のようなものを、そこで得たからだと思う。
モ:なるほど。
太:例えば自分がホントにマジで孤独に陥ったという時に、植物ひとつから自分と世界との繋がりが、植物じゃなくてもいいですよ、「モノ」すべてから、この世界と自分は繋がっているんだ、連動しているんだっていう感覚を得られれば、鬱に陥んないじゃないかなって思いますよね。
モ:はい。
太:それはなんかもう、脳のシナプスがどこの地点で繋がっているかみたいなレベルだと思うんです。そのシナプスの繋がりみたいなものをどこに置けるのかっていうとこじゃないですか。そこが繋がっていると、人間関係が何かうまくいかなかったり、あからさまに自分に対して悪意を持って接してくるような人が、仮に現れたとしても、そこから瞬時に逃げるっていう手段を選択しやすくなるし。というのは、そういう状況に追い込まれた時に、なぜ人は逃げられないかというと、そこの繋がりを断ったら自分という存在が揺らいじゃうからじゃないですか。でも、そこでその人との繋がりを断って逃げたとしても、この世界と自分との繋がりは決して失われないんだという確信があれば、人間関係も能動的に選べるようになるし、自分が心地いいと思えるコミュニティを能動的に察知して、そっちにちゃんと繋がる覚悟が出来たりとか、たぶんいろいろと細かいレベルで変化が起こると思うんですよ。
モ:鳥取って冬になると太陽が出なくなるんですよ。雨、雪、曇りが基本モードだから、外仕事はできなくなるんですよね。で、気候も寒いし、自分の生活の中から畑というものが失われるんですよ。そうなると僕は、毎年冬になると落ち込むんですよね。春、夏、秋が平気なのは、土に触れていることがかなり救いになっていて、だから(畑があることで)人間の世界だけじゃない世界みたいなものに、冬以外はいつでも接続できるんですよ。日本で暮らす自分の凡庸な例に当てはめると、そうなのかなって思って話を聞いていたんですけど。太田さんにとっては何だろう。ジャングルにすんでいたら、セバスティアンたちはいろいろなものとの接続の可能性があるわけじゃないですか。でも今、太田さんは日本に帰ってきて、マインド的に心とかが「やべー」って時にどうやって立ち返るための装置(を持つ)というか、何と接続しますか。
太:「やべー」っていう時に自分を単発的に癒すというよりは、そういう時は生き方自体にこだわりを持たないことによって全部塗り替えますね。例えば今、僕は映画監督ということに一応なっていますけど、本当に根源的なところでは映画監督でなくていいと思っています。例えばいろいろなことが立ち行かなくなって、次の作品が撮れないとか何かいろいろとうまくいかないって時は、たぶん全部ガラッと変えて、今の自分にとって最適な世界との関わり方ってなんだろうなって、もう一回、一から模索すると思います。
モ:身体としての自分に立ち返って、またスタートする。
太:そうです、そういうことです。その点で、瞑想とかは、近代社会の中で自分が生きているっていう時に、もう一回アマゾンで僕が体験したような感覚に少しでも立ち返るって言う時に、有効な手段ではありますね。完全にアマゾンにいるのと同じ体験というのをもう一度手軽に得て戻ってきます、っていうのは簡単にできないとしても、瞑想はけっこうそこを接続してくれるなと思っていて。それをやると、その時点での自分の最適な状態がちょっと見えてくるんで、それに素直に行くってことですね。そこに余計なキャリアの心配とか、そういうものを挟みこまない。常に自分は血と骨と肉とで出来ている一つの生命体でしかない。というか、それ以上でも以下でもないよねっていうことに立ち返って、名声とかキャリアとか今後のどうこうとかっていうのは関係ないっていう地点に立ち返る。
モ:日本に暮らす僕たちにも出来る方法ですね。
太:うん、瞑想は大事な気がしますね。ヨガもやっぱりいいと思うし。ヨガは最近あまり出来てないんですけど。たぶん現代社会の中でヨガがこれだけ人気になっている理由はそこにあると思います。
モ:はい。そろそろまとめというか、最後の質問にしようかなと思いますけど。太田さんにとって深い自分と接続しようとすること…、いや、難しいな。たぶん『カナルタ』をこうやって映画というものにして、みんなに伝えられるものにしたというのは、そこで太田さん自身が体験したことを言葉で足りない部分を越えて、映像というよりいろいろな感覚を通して受け取れる形にして、日本で上映しているというのは、日本の人にとっての合法なアヤワスカじゃないけど(笑) 特殊な体験をさせるというとなんだかちょっと違うんだけど、そういう意図というか、願いがあるような気がするんですよね。
太:うん、ありますよ。
モ:それで、伝えたいことというのは、たぶん深い部分の自分に(接続して)行く一つの自分が体験した道程を見せるっていうことだと思うんですけど、その深い部分にたどり着く道程を何て呼びますか。
太:深い部分に立ち返る自分の道程を何て呼ぶか。
モ:その歩もうとする道を僕は今のところ「スピらずにスピる」としか言えていなくて。「信仰」って最初言っていたものの、それでは伝わらないからいろいろと考えて、とりあえずのところは「スピらずにスピる(仮)」で置いておいているんですよね。
太:うんうん。何て呼ぶか…
英語で言うと「Art of Relating」という言い方を僕はしているんですけど。 「繋がるための技法」っていうことなんですけど。それに近いのかな。3.11の経験をふまえていろいろ紆余曲折を経て思い始めたのが、究極的にはその人が真の意味で全てを削ぎ落した状態でその人らしくいれるっていう状態を目指せれば、自然とこの世界は良くなっていくと俺は思っているんですよ。シンプルな共感力とか、こういうものがあったらやっぱり気持ちいいよねっていう感覚が、それぞれの立場で紡ぎ出せれば、それだけでだいぶ現代社会の病理的なものって解消されていくと思うんですよね。例えば、企業でとんでもないパワハラばっかしてくる上司に痛めつけられながら生きているけど、その状態で幸せじゃない自分がいたとしたら、辞めればいいじゃんって(笑) そういう目に合っている人全員が辞めて繋がったら世界は大きく動くわけで。そういうシンプルな地点に一旦立ち返っていいんじゃないかって、その結果として例えば自然が守られたりとか、原発ってやっぱりいらないよねってことになれば、それはそれでいいんじゃないっていう。
だから、一定のこういうものが正しいみたいな教条主義的っていうんですかね、そういうものからトップダウン的にこういう世界を目指すべきみたいなものがあって、それにみんな向かおうよっていう、革命主義みたいな思想はそうだと思うんですけど、そういうことではなくて。そういうことを人類は何度もやって、結果うまくできてないわけじゃないですか。そういうことじゃなくて、一人ひとりの個人が本当に自分が気持ちいい状態を能動的に作り出していいんだっていう感覚をもたらすことが出来れば、ドミノ倒しのようにいつの間にか変わってるんじゃないかって、この世界が。そのためにはこの世界と痛覚を共有するという、どこかで太い一本の何かで繋がるっていうことが根本的には大事な気がしていて、『カナルタ』はそれを伝えるための作品ですかね。だから、そういう意味では『カナルタ』は「観るアヤワスカ」みたいな感じなのかもしれないです(笑) 合法的なアヤワスカ的ヴィジョンの追体験。
モ:なるほど。
太:究極の無血革命みたいな感じですね、理想的には。
モ:たぶん作品ごとで、これからも映像になったり言葉になったり写真になったり、いろいろと変わっていくと思うんですけど、太田光海という人間の核たるテーマはそういうことになっていくかなって感じですかね。
太:そうです。それがたぶんいろいろな形を変えて現れてくると思うんですけど、でもその骨格的なものっていうのは「カナルタ」以上に表現しているものは無いですね。たぶん今後もうどれだけ…分かんないですけど、もちろん次に作品撮るってなったら、そりゃ全力で作りたいって思いますし、それもそれでまた新しい表現を生み出したいとは思うんですけど…自分の核となるものっていうのは、たぶん「カナルタ」以上にピュアに表現しているものは今後もなかなか生まれないんじゃないかと思いますね。もちろん、その「核」自体もまた変化し続けると思っていますけど。
モ:次の展開とかは考えていますか。
太:ある程度、考えています。
モ:それは映像ですか。
太:映像もそうですし、今は本を書こうとしています。というか書きます。
モ:おー!楽しみです!
太:ちょっと出版社の人とやりとりしています。ガッツリ取り組まないと!
モ:じゃあ、それが読める日を楽しみにっていう感じで、今日のところは終わろうかと。はい。ありがとうございます。
太:ありがとうございます。
太田光海さんのプロフィールはこちら
モリテツヤ(もり・てつや)
汽水空港店主。1986年北九州生まれ。インドネシアと千葉で過ごす。2011年に鳥取へ漂着。2015年から汽水空港という本屋を運営するほか、汽水空港ターミナル2と名付けた畑を「食える公園」として、訪れる人全てに実りを開放している。
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